A CHAIN OF WORKS #2・カニグズバーグ『ジョコンダ夫人の肖像』
A CHAIN OF WORKS #1・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』
Shall we watch this TV-show? 『天国と地獄 サイコな2人』
TBSドラマ『天国と地獄 サイコな2人』を毎週Tverで観ている。
今クール観てるのはこのドラマだけだ。
理由はわからないが唐突に惹かれるドラマというのが何クールかにひとつくらいあって、それはだいたい事前告知のCMでわかる。
種類は違っても
「あ、これはみるやつ」
って思いませんか、みなさん?
ドラマのみどころなどは、あらすじも含めて公式HPにゆずるとして。
TBS『天国と地獄 サイコな2人』公式
https://www.tbs.co.jp/tengokutojigoku_tbs/
私がこのドラマのなかでとくに観入ってしまう箇所をいくつか(ただのミーハー)
【高橋一生さんという役者さん】
このドラマ、一話目で綾瀬はるかさん演じる女性刑事と、高橋一生さん演じる実業家の男性(シリアルキラーの疑いアリ)とが、いわるゆ「いれかわり」してしまう(心と身体がいれかわるやつ)
どちらも演技力のある俳優さんならでは、回を重ねるごとにいれかわったふたりの容れ物(身体)となかみ(心)とが不思議なシンクロをしていくようにみえる。
ここが、このドラマのいちばん好きなとこ。
というか、いやここは物語の本筋ではなくて余白の部分だと思うんだけど。
「刑事と殺人鬼」の追いかけっこを超えて、互いを理解したいと思い、互いの境遇や心に触れたいと(主に刑事である綾瀬さんの心が、殺人鬼疑いの高橋さんに対して)単に捜査的な視点を超えて動いていく。
物語の語り手は一貫して綾瀬さん(女性刑事・望月さん)なんだけど、その心の動き、
「相手を知りたい」「理解したい」
と渇望するがゆえのゆっくりとしたシンクロを、綾瀬はるかさんと高橋一生さんがとても見事に演じておられるように感じる。
とくに高橋一生さんの演技。
高橋一生さん。不思議な役者さんですよねー
捉え所がないというか。文字通り、シルエットが常に揺れ動いていてつかめない。
ハンサムでスマートなことには変わりないんですが、どことなく人としての多面性や揺らぎを感じさせる
(すごく個人的には、
ものすごくハンサムでカッケーと思うときと
その逆のときとの差が大きいというか。
作品や役柄によって魅力の現れ方が全く異なるというか)
シーンとしては、容疑者の心が入った綾瀬さんがまるで男性のように凄む演技とか
迫力あって引きがあるんだけど
それよりも、ふたりの心がゆっくり静かに近づいたり離れたり、
そのシンクロニシティをよくこんなふうに演じられるなぁと見惚れるんです。
同感!の方おられましたら挙手を。
【主題歌冥利かなー 手嶌葵「ただいま」】
このドラマで流れるクラシックのテーマ曲はオッフェンバッハ「天国と地獄」
たぶん誰でも聞いたことある名曲で、これがハマるハマる。
しかしこのドラマの主題歌は
手嶌葵さんの「ただいま」という曲。
素敵なのだ、とても。
手嶌葵「ただいま」Music Video
毎回、ドラマのなかでこの「ただいま」が流れるのは一度だけ。
だいたいエンディング近くの大切なシーン。
単に「いれかわり」の物語と括るにはもったいないほど複雑で丁寧に描かれたさまざまな要素の絡むこのドラマ、
シリアルキラーとかいれかわりとか、目を引く要素の背景にあるものこそ核心、みたいな気がするけど
それを象徴するようなしっとりとした、このドラマのための曲って思う。
ドラマ自体、コメディの要素も多分に含まれていてテーマのわりにライトにも観ることができるけど、この曲が流れ始めると一気に色彩が変わる。
奥行きがでるというか。
ドラマの主題歌や挿入歌で、妙に心惹かれるものってたまにありませんか。
意味や曲そのものの内容と無関係に。
いま、ぱっと思いつくのは
JUJUさんの「奇跡を願うなら」
とかかな。
それがなんのドラマだったかも忘れてしまうけど。
このドラマのなかでの手嶌葵「ただいま」はそんな印象が突出している。
とにかくこの曲が流れ始めると物語がしゅるるるるっと、大事な核心の核心へ吸い込まれるように戻される。
そして主人公のふたり(とくに高橋一生さん)のもつ孤独や哀しみ(たぶん)に自然とフォーカスしていく。
不思議な曲ーぅ
ちなみにこの曲を鼻歌で歌うのは超ムズイ
(手嶌葵さん、すごい… ←あたりまえ)
【サイコパスという心】
私は人々の心にちょっとずつ近づくような仕事をしていた(いまは休憩)
たぶん仕事を除いても、人の心に引きつけられてしまうほうだ。
実際に殺人を犯した人に出会ったことも話したこともないけれど、
おそらくは「同僚の、あの人って興味深いね」と同程度の好奇心で
サイコパスやシリアルキラーといわれる人人の心にも興味がある。
惹かれはしないが、どんな構造をしているのかな、とシンプルに思うのだ。
こんなふうに思う人間が同業者のなかには山ほどいるので何ら異端と感じなかったが、異業種の人と話してると「よくそんなこと仕事にできますね」「絶対無理っすわ」といわれる。
そうなんだ……
このドラマ、その部分をとても興味深く描いていて、たぶん私と同職種とか近接領域の職業人も多く観ているだろうなと予想する。
大抵の場合、そういう人の背景には哀しいドラマがある。
リアルの世界ではたぶん、生まれつきの気質も影響しているだろう。
さらにリアルにいえば、最後の一手を止められるか止められないかの、その違いあたりに気質というものがある気がしている。
テレビドラマのなか、すなわちフィクションのなかでそこまで厳密に描いていたらフィクションの意味をなさないと思うので、このドラマでもいまのところそのへんは曖昧だ。
けれどだからこそ「私やあなたとおなじ、人間の物語」として眺めることができる。
このドラマのなかでは殺人という形がとられるけれど、心の形でいうならそれは「絶望」だろう。
濃度の差はあれどの人のなかにだってある「絶望」というものの姿を、その流れを
綾瀬はるかさん・高橋一生さんの演技を通じて興味深く観ている。
生まれたときから、または幼くして絶望のかけらを心に宿さなければならないことは哀しい。
それが絶望であると意識すらできないからなお哀しい。
そんな心がいつか、すこしずつ歳を重ね、誰かを好きになり想い合うことを知り、生きていく方法を見つけ社会に居場所を作り。
けれどなにかひとつ、どれかひとつ、
もしくはすべて、
それとわからないどこか、いつか、
予想すらつかない sometime, somewhere に何かをつかまれて絶望を絶望と意識していく。
絶望はぼんやりと気分となり気持ちとなり感情となり思考となり、
そして行動となって
自らを、誰かを、その両方を
さらなる哀しみの先に追いつめる。
追いつめられたのは崖ぎりぎりの淵。
いつまで、どこまでここに立っていられるのだろう。
誰かの手が差し伸べられるまで?
こないだの日曜で第5回が終わったところ。
謎が謎を呼び、このドラマについての「考察系動画」なんてのも流行ってるらしい。そっちは観てませんが、このドラマがおもしろいことは確実。
さてみなさん、よろしければご一緒に『天国と地獄』を観ませう。
お誘い申し上げます。
ただいまのないただいま
手のひらのなかの空間
これから先、私はどんなふうになっていくんだろう。
「なりたい姿はわかる」
なんて友人に書いたけどほんとは全然わかってない。
売り言葉に買い言葉、だ。
安易に逃げた言葉。要は。
失っていくものと得ていくもの。
それを見守る自分自身。
人との別れは、別の角度から見れば自我を取り戻すことだった。
また別の角度から見れば純粋に愛着対象や仲間の喪失。
愛犬を失うことは居場所の喪失。役割の喪失。魂の一部欠如にも似た、果てしない愛着の喪失。得たものは時間と体力。でもそんなの得なくてもよかった。
持ちすぎているものも気になる。
本、モノ。
体力はあれど気力が追いつかないのでそれは要調整。
時間。
今年も走りはじめた。
非常にまだまだだけれど、走りはじめたことは事実。
本をたまに横に置いて、身体を動かす。
手先を動かして何かを作る。できれば何か美しいもの。
小さなことを勉強する。ちゃんとノートに向かってメモを取りながら。そして身につける。
走る。まずは7キロ。
失うものと得るもの。
それを同年代のある人は「成熟」と表現した。「大人」とも。
成熟とはどんなものだろう。
実用と無関係の本を読む。
自分ひとりのなかで考え、考え続ける。
何かを表現してみる。
無心になれること。
中年に差しかかって(というかもうだいぶ中年で)
すると失ったものに目と心が移る。
失うものと得るもの。
失う、と、手放す、とは少しずつ違う。
その違いは言葉にせずあえて感覚のままとらえていたい。
ここからできるなら、手放しながら何かを削いでいく。
いまはもう、手に掴んでいなくても大丈夫なものを。
そしたら、手があく。
何もない手のなかに空間ができる。
違う何かをつかむことも。
つかまないまま風にさらして生きることも。
失うよりも、手放す。
自分という個から何かを削いでいく。
いまはもう、ここになくても大丈夫なもの。
いまはもう、もっと身軽でいいもの。
いまはもう、ちゃんとわかったことを。
つかんでいなくても触れていなくても、ちゃんとわかってきたことを。