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日々の日記。ひっそりと静かに。

A CHAIN OF WORKS #2・カニグズバーグ『ジョコンダ夫人の肖像』

rewrite: 2014年に書いたもの。続き】
周知のことだろうが、日本人のいうところのレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナリザ』は
フランス、イタリアでは『マダム・ジョコンダ』と呼ばれる。
「ジョコンダさんの奥さん」ということだ。
モナリザ』のモデルについては製作時期から500年を過ぎた今でも諸説あるが、もっとも確からしいのが、この「ジョコンダさんの奥さん」というものだ。

ジョコンダさんはレオナルドが滞在したフィレンチェの富裕な商人で、マダム・ジョコンダはその2番目の奥さんにあたる。
富裕といっても貴族ではなく、レオナルドにとって「描く」ということが名誉欲や金銭欲以上に自己に内在する創作意欲と天性の才によるものだということが、この小さなエピソードだけでも伝わってくる。

***
レオナルドはその芸術家人生を主にフィレンチェと、ミラノとで開花させた。
私はレオナルドといえばフィレンチェをすぐに連想していたのだけれど
彼の人生を記したものにいくつかあたってみると
「ミラノ」という場所が彼にとって、とても重要な場所であったことがわかる。

1490年前後、レオナルドはミラノにおり、そのパトロン
当時急激に勢力を増強、拡大しようと野心に燃えていた若きミラノ公、ルドヴィコ・スフォルツァ(イル=モーロ、「モーロ人のように色黒」という意味)だった。

若い野心家にあるとおり、モーロもかなり好色であったみたいだけれど
そのモーロを10年以上にわたってトリコにし続けた女性がいた。
モーロは彼女をこよなく愛し、正式の結婚はしなくとも、ミラノ公邸のマダムとして扱った。
またモーロの恋人はその愛にふさわしく、若く、美しく、なにより知的で
ルネサンス開花期のイタリア知識人をも魅了してやまなかったという。
その人こそチェチリア・ガッレラーニ。
白貂を抱いた若く美しい才女。

そんなモーロのもとに正妻がやってくる。
政略的な結婚だ。

彼女の名をベアトリチェ・デステという。
彼女は、美しくなかった。
当たり前のようにモーロは、10年の恋人のほうを愛した。

孤独だった正妻ベアトリチェは、けれどもその心の中に得難い宝を宿していた。
「ほんとうのものを見る、ものさし」を。

レオナルド・ダ・ヴィンチにはサライという美しい徒弟がいたといわれる。
これは史実のようだ。
親子以上に年の離れた少年だった。
金髪に美しい巻き髪。しかし知的でもなければ上品でもない。
どちらかというと小猿のような、野生的な少年だった。

サライはミラノの貧しい靴屋の息子で、もっぱら道行く人からスリを働いては自分のお小遣いと父・姉の生活をまかなっていた。
そんなサライをレオナルドが見つけ、徒弟とする。

サライには芸術家としての才はなかったが、そのなかにあるなにかを、レオナルドは愛した。
ベアトリチェの「ほんとうのものを見つける目」を見出したのもサライだった。

サライを介し、レオナルドとベアトリチェは心を通わすようになる。

ベアトリチェはその後、モーロの子どもを出産したのち、22歳で世を去った。



レオナルドはサライを終生、自分のそばに置いた。
没後はその遺産をサライにわけあたえた。
サライによる油絵の作品も残っている。

若く、美しくなく、けれどその心の中に「ほんとうのものさし」をもっていた、夫に愛されなかった貴族夫人。
そんなベアトリチェとレオナルドとの、サライとの間に生まれたもの。


その捉え難く、一本の線で描きがたい何かが
レオナルドの『モナリザ』とゆっくりと繋がっていく。
***

ここまでの話は
児童文学作家(といってもかまわないだろう)カニグズバーグによる『ジョコンダ夫人の肖像』と、私の記憶とを混ぜ合わせたものだ。

カニグズバーグアメリカ在住の女性作家。
彼女の名作といえば、まずなによりも『クローディアの秘密』(岩波少年文庫) がある。
『クローディアの秘密』を読めば彼女の多才さとオリジナリティがよくわかる。


『ジョコンダ夫人の肖像』はカニグズバーグが、レオナルドの名作『モナリザ』を取り上げた作品だ。
ストーリーは、モナリザの「モデル問題」を云々したり、名画の解説をしたり、レオナルドの人生を追っているものではなく、あくまで「物語」ファンタジー(史実に基づいてはいるけれども)だ。
同時に、そのファンタジーは500年の時を越えて科学が解明しようとしている『ジョコンダ』に関する様々な問いに軽々と答えを開いているような気がする。


「物語」というのはそういう力を、もつのだと思う。
文学という大きな手のひらの上に、「ほら」と。


追加のようだが、カニグズバーグは「女性」というものを捉えたときにほんとうにオリジナルな眼と筆をもっている。
とても素敵だ。

復刊してほしい。

A CHAIN OF WORKS #1・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』

rewrite : 2014年に書いたもの】

2001年10月のある日。
京都市立美術館。
私はおそらく自分の、27歳の誕生日の記念として、ひとり京都に絵を見にでかけたのだった。
おそらく平日だったのだろう。
人ごみは想像ほどでもなく、並べられた絵画を見る一筋の人の列ができている程度だった。

列に沿ってコレクションをひととおり見終わったあと、一人の女性の前に引き返し、その人の額縁の前でずいぶん長いこと佇んでいた。

貴重な絵画を見ようと列をなす人たちが、目の前に一列ながらひきもきらず通り過ぎる。
その流れに邪魔にならぬよう、一歩後ろに立って
30分だろうか、一時間だろうか、二時間だろうか。その女性に見惚れていた。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』
「チャルトリスキ・コレクション展」と題された企画展はその年
京都、名古屋、横浜を巡る予定で
ポーランドクラクフに眠る類稀なコレクションを日本に運んできた。
「チャルトリスキ」という名前はポーランド公爵家の名で、このコレクションは18世紀末から、公爵チャルトリスキ家によって蒐集された美術品たちらしい。
第1次世界大戦、第2次世界大戦のポーランドの苦難を乗り越えて現在まで国の誇りとして愛される、ポーランドの国宝級のコレクションといえる。

このコレクションの目玉が、レオナルド・ダ・ヴィンチの『白貂を抱く貴婦人』であった。
その目玉に魅入られてしまった。
美しい。
最初からこの人を見に京都まで向かったのだけれど、その美しさは圧倒的だった。

レオナルドの絵をみるのはいつぶりだろうか。
ずっと昔、子どもの頃、
上野に『モナ・リザ』が来たとき、伯母と一緒に長い長い列を並んでもらって
けれど目の前に現れたモナ・リザその人は、幾重もの人の頭越しにちらと見えただけで
まだ少女であった私にはその面影すら残っていない。

おそらくはそれ以来だ。ダ・ヴィンチの絵をみるのは。

額縁の前にたって、その人の姿に見入る。
なんといってもみるものを釘付けにするのは、その右手。
白貂(シロテン、イタチの一種)を抱く、若くきりりとした女性の右手はいまにも動き出さんばかりに
長い指がふと伸びて白貂の毛を撫でるのではないかと思うほどに、それはそれはリアルで生々しかった。
解剖をしながら人体の仕組みに迫ったダ・ヴィンチの筆、そのもののように思えた。

ダ・ヴィンチによって一筆ひとふで置かれた絵の具は500年の時を経てなお、命を帯びているように思えた。

私は、主にその右手に見惚れたまま、ひんやりとした京都市立美術館の壁に長いこともたれていた。

ダ・ヴィンチの筆とこの女性の知的なまなざしに魅せられて帰途についた私は、この人について調べてみた。

この女性をチェチリア・ガッレラーニという。
レオナルドがこの絵を描いた1490年頃まで、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ)の恋人として、ミラノ宮廷に花咲いた人だ。
まだまだネットもなく知識も少なかった2001年当時、私にわかったのはここまでで、
そこから
この美しい人と、そして彼女を取り巻いていたルネサンス期の色彩溢れる物語を知るにはずいぶん長い時間を要した。

けれどもその長い時間、「チェチリア」への思いは意識の上に浮かんでは消えることはあっても
私の心から完全に遠ざかることは一度もなかった。
たくさんの資料やたくさんの偶然が手許に集まってきた今となっても私の心は変わらず、この若く知的なひとりの女性の上にある。
こんなふうにして、私のダ・ヴィンチへの
チェチリアへの旅は
ふりかえれば2001年の10月にはじまったみたいだ。


《参考文献》
レオナルド・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』チャルトリスキ・コレクション展カタログ、学術アドバイザー・翻訳監修 岡田温司、株式会社ブレーントラスト、2001

京都市展》
主催:京都市美術館京都新聞社、NHK京都放送局、NHKきんきメディアプラン
後援:外務省、ポーランド大使館、イタリア大使館、日本おけるイタリア2001年財団、京都府京都府教育委員会京都商工会議所


*チャルトリスキ美術館 公式サイト 「白貂を抱く貴婦人」


レオナルド・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』(1489年、油絵)

Shall we watch this TV-show? 『天国と地獄 サイコな2人』

TBSドラマ『天国と地獄 サイコな2人』を毎週Tverで観ている。

今クール観てるのはこのドラマだけだ。

理由はわからないが唐突に惹かれるドラマというのが何クールかにひとつくらいあって、それはだいたい事前告知のCMでわかる。

種類は違っても

「あ、これはみるやつ」

って思いませんか、みなさん?

 

ドラマのみどころなどは、あらすじも含めて公式HPにゆずるとして。

 

TBS『天国と地獄 サイコな2人』公式

https://www.tbs.co.jp/tengokutojigoku_tbs/

 

私がこのドラマのなかでとくに観入ってしまう箇所をいくつか(ただのミーハー)

 

 

 

高橋一生さんという役者さん】

このドラマ、一話目で綾瀬はるかさん演じる女性刑事と、高橋一生さん演じる実業家の男性(シリアルキラーの疑いアリ)とが、いわるゆ「いれかわり」してしまう(心と身体がいれかわるやつ)

 

どちらも演技力のある俳優さんならでは、回を重ねるごとにいれかわったふたりの容れ物(身体)となかみ(心)とが不思議なシンクロをしていくようにみえる。

ここが、このドラマのいちばん好きなとこ。

 

というか、いやここは物語の本筋ではなくて余白の部分だと思うんだけど。

「刑事と殺人鬼」の追いかけっこを超えて、互いを理解したいと思い、互いの境遇や心に触れたいと(主に刑事である綾瀬さんの心が、殺人鬼疑いの高橋さんに対して)単に捜査的な視点を超えて動いていく。

物語の語り手は一貫して綾瀬さん(女性刑事・望月さん)なんだけど、その心の動き、

「相手を知りたい」「理解したい」

と渇望するがゆえのゆっくりとしたシンクロを、綾瀬はるかさんと高橋一生さんがとても見事に演じておられるように感じる。

とくに高橋一生さんの演技。

 

高橋一生さん。不思議な役者さんですよねー

捉え所がないというか。文字通り、シルエットが常に揺れ動いていてつかめない。

ハンサムでスマートなことには変わりないんですが、どことなく人としての多面性や揺らぎを感じさせる

(すごく個人的には、

 ものすごくハンサムでカッケーと思うときと

 その逆のときとの差が大きいというか。

 作品や役柄によって魅力の現れ方が全く異なるというか)

 

シーンとしては、容疑者の心が入った綾瀬さんがまるで男性のように凄む演技とか

迫力あって引きがあるんだけど

それよりも、ふたりの心がゆっくり静かに近づいたり離れたり、

そのシンクロニシティをよくこんなふうに演じられるなぁと見惚れるんです。

同感!の方おられましたら挙手を。

 

 

【主題歌冥利かなー 手嶌葵「ただいま」】

このドラマで流れるクラシックのテーマ曲はオッフェンバッハ「天国と地獄」

たぶん誰でも聞いたことある名曲で、これがハマるハマる。

 

しかしこのドラマの主題歌は

手嶌葵さんの「ただいま」という曲。

素敵なのだ、とても。

 

手嶌葵「ただいま」Music Video 

https://youtu.be/0IueDUcDmRY

 

 

毎回、ドラマのなかでこの「ただいま」が流れるのは一度だけ。

だいたいエンディング近くの大切なシーン。

 

単に「いれかわり」の物語と括るにはもったいないほど複雑で丁寧に描かれたさまざまな要素の絡むこのドラマ、

シリアルキラーとかいれかわりとか、目を引く要素の背景にあるものこそ核心、みたいな気がするけど

それを象徴するようなしっとりとした、このドラマのための曲って思う。

ドラマ自体、コメディの要素も多分に含まれていてテーマのわりにライトにも観ることができるけど、この曲が流れ始めると一気に色彩が変わる。

奥行きがでるというか。

 

ドラマの主題歌や挿入歌で、妙に心惹かれるものってたまにありませんか。

意味や曲そのものの内容と無関係に。

いま、ぱっと思いつくのは

JUJUさんの「奇跡を願うなら」

とかかな。

それがなんのドラマだったかも忘れてしまうけど。

 

このドラマのなかでの手嶌葵「ただいま」はそんな印象が突出している。

とにかくこの曲が流れ始めると物語がしゅるるるるっと、大事な核心の核心へ吸い込まれるように戻される。

そして主人公のふたり(とくに高橋一生さん)のもつ孤独や哀しみ(たぶん)に自然とフォーカスしていく。

不思議な曲ーぅ

 

ちなみにこの曲を鼻歌で歌うのは超ムズイ

手嶌葵さん、すごい… ←あたりまえ)

 

 

 

サイコパスという心】

私は人々の心にちょっとずつ近づくような仕事をしていた(いまは休憩)

たぶん仕事を除いても、人の心に引きつけられてしまうほうだ。

 

実際に殺人を犯した人に出会ったことも話したこともないけれど、

おそらくは「同僚の、あの人って興味深いね」と同程度の好奇心で

サイコパスシリアルキラーといわれる人人の心にも興味がある。

惹かれはしないが、どんな構造をしているのかな、とシンプルに思うのだ。

 こんなふうに思う人間が同業者のなかには山ほどいるので何ら異端と感じなかったが、異業種の人と話してると「よくそんなこと仕事にできますね」「絶対無理っすわ」といわれる。

 そうなんだ……

 

 

このドラマ、その部分をとても興味深く描いていて、たぶん私と同職種とか近接領域の職業人も多く観ているだろうなと予想する。

 

大抵の場合、そういう人の背景には哀しいドラマがある。

リアルの世界ではたぶん、生まれつきの気質も影響しているだろう。

さらにリアルにいえば、最後の一手を止められるか止められないかの、その違いあたりに気質というものがある気がしている。

 

テレビドラマのなか、すなわちフィクションのなかでそこまで厳密に描いていたらフィクションの意味をなさないと思うので、このドラマでもいまのところそのへんは曖昧だ。

けれどだからこそ「私やあなたとおなじ、人間の物語」として眺めることができる。

 

このドラマのなかでは殺人という形がとられるけれど、心の形でいうならそれは「絶望」だろう。

濃度の差はあれどの人のなかにだってある「絶望」というものの姿を、その流れを

綾瀬はるかさん・高橋一生さんの演技を通じて興味深く観ている。

 

 

生まれたときから、または幼くして絶望のかけらを心に宿さなければならないことは哀しい。

それが絶望であると意識すらできないからなお哀しい。

そんな心がいつか、すこしずつ歳を重ね、誰かを好きになり想い合うことを知り、生きていく方法を見つけ社会に居場所を作り。

けれどなにかひとつ、どれかひとつ、

もしくはすべて、

それとわからないどこか、いつか、

予想すらつかない sometime, somewhere に何かをつかまれて絶望を絶望と意識していく。

絶望はぼんやりと気分となり気持ちとなり感情となり思考となり、

そして行動となって

自らを、誰かを、その両方を

さらなる哀しみの先に追いつめる。

追いつめられたのは崖ぎりぎりの淵。

いつまで、どこまでここに立っていられるのだろう。

誰かの手が差し伸べられるまで?

 

 

 

 

こないだの日曜で第5回が終わったところ。

謎が謎を呼び、このドラマについての「考察系動画」なんてのも流行ってるらしい。そっちは観てませんが、このドラマがおもしろいことは確実。

 

さてみなさん、よろしければご一緒に『天国と地獄』を観ませう。

お誘い申し上げます。

ただいまのないただいま

正解なんて知らない世界でひとりで生きてる。
みんな。
たしかに守られていたりフォーマルの塊にみえたり揺らぎない自信とともにあるようにみえても、
だとしたらそれは答えのない世界に住んでいることを知らないか
知らないように見えるだけ。
若く美しくお金やステータスがあったり、けれどほんとはそんなことなにも関係なくてただ呼吸をし感情と思考を抱えて生きている。
仲睦まじそうで競っていたり知られたくないよといいながら誰かのいいねを待っていたり
そんなのはぎとって生きていれば。
どこにも正解なんてなく、どこにも成功なんてない。

心の奥深くにビーバーの巣のような穴ぐらがあって、傷ついたり哀しんだり不意打ちにあったりするとひとはしずかにその穴ぐらにもどる。
誰にも知られずに、ひとりで。
穴のなかには小さな焚き火が灯っていて光と温度がある。
その脇でうずくまったり座り込んだり仰向けになったり滔々と泣いたり、すこし笑ったり叫んだりそして自分を抱きしめたら
体温が戻ってきていたなら
ゆっくりとまた答えのない世界に身を晒す。

ただし答えはない。
まだ。
きょうも。
あすも。
いつまでも。

手のひらのなかの空間

これから先、私はどんなふうになっていくんだろう。

「なりたい姿はわかる」

なんて友人に書いたけどほんとは全然わかってない。

売り言葉に買い言葉、だ。

安易に逃げた言葉。要は。

 

失っていくものと得ていくもの。

それを見守る自分自身。

 

人との別れは、別の角度から見れば自我を取り戻すことだった。

また別の角度から見れば純粋に愛着対象や仲間の喪失。

愛犬を失うことは居場所の喪失。役割の喪失。魂の一部欠如にも似た、果てしない愛着の喪失。得たものは時間と体力。でもそんなの得なくてもよかった。

 

 

持ちすぎているものも気になる。

本、モノ。

体力はあれど気力が追いつかないのでそれは要調整。

時間。

 

 

今年も走りはじめた。

非常にまだまだだけれど、走りはじめたことは事実。

 

 

本をたまに横に置いて、身体を動かす。

手先を動かして何かを作る。できれば何か美しいもの。

小さなことを勉強する。ちゃんとノートに向かってメモを取りながら。そして身につける。

走る。まずは7キロ。

 

失うものと得るもの。

それを同年代のある人は「成熟」と表現した。「大人」とも。

成熟とはどんなものだろう。

 

 

実用と無関係の本を読む。

自分ひとりのなかで考え、考え続ける。

何かを表現してみる。

無心になれること。

 

中年に差しかかって(というかもうだいぶ中年で)

すると失ったものに目と心が移る。

失うものと得るもの。

失う、と、手放す、とは少しずつ違う。

その違いは言葉にせずあえて感覚のままとらえていたい。

 

 

ここからできるなら、手放しながら何かを削いでいく。

いまはもう、手に掴んでいなくても大丈夫なものを。

そしたら、手があく。

何もない手のなかに空間ができる。

違う何かをつかむことも。

つかまないまま風にさらして生きることも。

 

 

失うよりも、手放す。

自分という個から何かを削いでいく。

いまはもう、ここになくても大丈夫なもの。

いまはもう、もっと身軽でいいもの。

 

いまはもう、ちゃんとわかったことを。

つかんでいなくても触れていなくても、ちゃんとわかってきたことを。