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日々の日記。ひっそりと静かに。

エール 空と芝生のあいだ

縁あって姪(22歳になっていた)甥(16歳になっていた)と深く接しながら暮らしている。


甥は小学生の頃からサッカーを始めた。
高校生になったいま、サッカーのためだけに高校に通う(ような)日々を送っている。
中学生までは彼なりにそこそこ通用したつもりでいたサッカー力も、全国から精鋭が集まる高校では苦戦を強いられているようだ。


私は文化系の部活動に終始したうえ、運動で褒められたことがない。よってスポーツとは縁遠い人生を送ってきた。
甥がサッカーをはじめた頃、週末の休日、ただ空の青と芝生の緑が広がる空間に身を置くことそのものがとても新鮮だったことを覚えている。
こんなにも光と酸素に溢れた空間がすぐそこにあったのか、と奇妙に胸を打たれた。


今年から高校生の甥の所属するチームはわりあいに強い。この冬も全国選手権大会へ出ることになり、一年生である甥もスタメンの三年生を応援しに会場へ出かける。
サッカー部総動員の応援団。
バスを連ねて東京へ向かう。
最終決戦は埼玉スタジアム
そこまでのトーナメントはかなり厳しそうだ。



今朝方、一足先に現地に向かうスタメンチームをいつもの練習場から送り出したらしい。

甥から送られてきた写真には、
練習場の脇にある寮の前にずらりと並んだ野球部やテニス部の坊主頭が写っていた。
「おまえらのベストをみせて」
「いや、マジで!」
白い横断幕に汚い字で、他部の先輩後輩たちからのエールがひろびろと描かれている。
それを持った高校生たちのはしゃいだ笑顔や後ろで組んだ腕や、サッカーではなくても日々の練習でともに日焼けしたそれぞれの姿が、送られてきた写真を開けた瞬間にまぶたのなかで滲んでみえた。

明けきらぬ早朝の冷たい空気のなか、サッカーのために遠出する仲間を送り出す野球部、テニス部、バスケ部、吹奏楽部、応援団、そのほかたくさんの高校生たち。


はじめて甥の試合を観たときの、空の青さと芝生の緑と
それらとおなじ鮮やかさで10年越しほどに再び心のなかでシャッターを切った。
忘れられない光景として。

Go, and Good Luck. 

2019(ニーゼロイチキュー)

なんだか知らないが泣きたくなる時がある。
いまがそうだ。
そのとき、いつも思うイメージは
「立ち止まることも許されない」
「ほんとうは手放しで泣きたい」
みたいな感じ。

1月に、いま思えばヘルニアの始まりがあった。一般的に人が「痛いから病院いこ」くらいの痛みなら私は私自身を完全に無視してしまう。
思えばこの頃すでに電柱と電柱のあいだを這うようにして通勤していた。

3月ころは、祖母が体調を最も崩した時期だ。祖母はなんとか乗り切ってくれた。

4月に部署変わりし、国の省庁関係の事業のひとつをまるまる任されることになった。そもそも仕事に対して意欲の低い人間(わたし!)に、なぜこのように川の流れは流れるのか。プレッシャーと新規事業の細々とした作業、各会議への顔出しなどが波のように押し寄せる。むむむ。

7月あたり。5月6月必死で働いてなんとか事業も軌道に乗り始め、まずまずのスタートを切れたのではないかと思う束の間。
しかし敵は内部にありて候。

8月。がっつり肺炎にかかる。お盆の真っ只中に自分で車を運転して早朝の救急外来へ駆け込んだ。「肺炎ですね」という若いドクターのクールな声が聞こえて、その瞬間、退職を決めた。仕事はここまでなんとかかんとか軌道に乗せたことでよしとしていただくしかない。皆々様、申し訳ない。しかし仕事で命は落とせない。

9月ごろは、不動産の関係でひっちゃかめっちゃかとなっていた。祖母が他界すればすぐにでも第一優先課題となる相続について、母から代々の過去の歴史も含めさまざまなレクチャーを受ける。不動産屋さんとも司法書士、弁護士とも渡りあうのは私、っつーわけですな(え?なぜに??)

10月は不動産の関係で弁護士やら司法書士やらとやたら関わりがあった。
誤解と偏見に満ち満ちた言葉を遠慮なく書くならば、弁護士という人々は何かがおかしい。親類縁者にもそれっぽい人がいるのでなんともいえない気持ちになるが、ここまで変わった人種だとは知らなんだ。
それに比して司法書士さんは実務をこなすからか、比較的人間に近い。ものすごい偏見なので読み飛ばしてください。しかし実感であったことも、た・し・か!
あと、新しい仕事の依頼があった。ただただ私の「頭だけ使ってくれたらいい」という元同僚からのオファー。ありがとう。


11月。祖母が他界した。98歳。
おばあちゃん。尊敬してました。
またね。


12月。
祖母のふた七日、三十五日もままならないなか巨大ヘルニアにて緊急手術&入院。
同時に、下肢の動かなくなった我が犬はいつもお世話になっている動物病院でしばらく預かっていただくこととなった。
正直、何が心配といって自分の手術や回復よりもよほど、犬のことが気がかりだった。
胸が痛む。

ようやく退院し、しかし腰を曲げられない私のために立ったまま犬の介護ができるケージを、私の父親代わりのような方が三日で作ってくれた。お礼の言葉もない。
犬を迎えに行き、「重いものを持つな」と主治医から再々注意されていることも忘れて10キロの犬を抱き抱えた。
いつもの犬の匂いがした。

新しくできた木の香りのするケージにそっと乗せると、すこしのおやつとお水を飲んで、そこからすやすやと眠り始めた。獣医さんはとてもいい方だしいい場所にいさせてもらったけれど、それでも慣れない環境のなか、彼なりに緊張の糸をはりめぐらせながら過ごしていたのだろう。
今日は犬が帰ってきて二日目。
まだまだゆっくり眠っていいよ。
一日二度の短いお散歩にはいこうね。
毛布をしっかりかけて寝てよ。
なによりも、おかえり、おかえり。

というわけで12月は私の入院と犬の入院とがあった。そして祖母の四十九日も。
そして引っ越しや荷物移動の真っ最中。


「2019」という数字はきっとこれからも
「立ち止まることが許されなかった」
時間として私の記憶に刻まれるように思う。
今年、これまでの人生になかった(極力避けていた)「戦う」ことと「終わらせる」こと、そして「明確な意思表示」とにどっぷりと向き合わされた。

戦うことを避けていたのは純粋に戦うことが嫌いだからだ。
けれどある種の戦いでしか終わらせられないものがあると知った。そしてほんとうに「終わらせよう」と決めたならば戦うことを途中でやめてはいけない。終わりにはならない。誰も救えない。

45歳という年が人生のどのような位置に属するのかは知らない(心理が専門なのに)
明日死ぬなら今日はラストだ。
平均寿命まで生きるならちょうど半分。

働き盛りともいうし、管理的な立場も経営すらも回ってくる。
祖母や母が担ってきた資産の管理や弁護士、司法書士、税理士などとのお付き合いも「代替わり」するらしい(私に。長女って…)

周囲が目まぐるしく変わっていくなかで、私は、これまでのようではいられなくなった。たぶん。部分的にではあるけれど。
恋人と離れたことももうずいぶんと遠い遠い昔のように感じる。
恋人と離れてからっぽになったと思っていた空き地に入ってきたものは、責任とプレッシャーと、大きな疲労と孤独、なのかもしれない。いまのところ。


立ち止まることが許されない。
手放しで泣きたいときも。

それでもしばらくはしっかりと立ち、歩き、ときに走り切るしかない。

そのとき。
そのとき、自分がささやかながら襟を正してきた矜持を忘れないこと。
自身と自身の延長にある人々を不必要な理不尽さにさらさないことを自分に誓う。そのための戦いなら迷わず前線に立つんだろう、私は。
私自身が持てるわずかながらの品位を手放さないこと。
そのことをしっかりと心に留めて。

ニーゼロイチキュー。
あと十日で終わる。

ニーゼロニーゼロも、どうせ立ち止まらないならそのように歩く。
襟を正し、自分の心をしっかりと掴んで。

 ただときどき泣きたい。
 ひとりきりでいいから。

入院記(退院します!) 続ヘルニア記

入院生活も明日までになった。長かった。

淡々と、ちょっと流れを書いてみる。

12月某日 手術の日
早朝の激痛により病院へ。検査の結果「巨大ヘルニア」と判明。ヘルニアがすでに右足と膀胱の神経を圧迫しつつあるため緊急手術となる。
※ 通常、排尿に支障が現れてから「48時間以内」に手術することが必須。これを超えた場合、膀胱機能障害となりまれには人工膀胱にならざるを得ない場合もある。私のケースは排尿困難が始まってからすでに24時間以上経過していたため「待ったなし」の手術となった。
※ ちなみに執刀医は
「僕もヘルニアは本来、患者さんがよほど望まない限りは手術はしない方針である。
 しかし今回は例外。しかも時間がない」
と説明してくれた。
14時に検査結果が揃い、17時手術開始。
19時30分 手術終了。
20時 麻酔から目が覚めたが3時間はICU待機とのことで、午前0時に術後病棟に移る。
このあたりはぼんやりしていてあまり覚えていない。

二日目 個室へ移動
背中の傷が痛くて目が覚めた。周囲が騒がしいので個室に移動する。
基本、ゆっくりの一日。ときどきナースがきて背中の傷をチェック。
聞くに、背中の傷は2センチ程度だが内部はより深く広く触っているらしい。
傷の治りは順調のようだが、大きなパッドを2枚貼った状態。痛い。
夕方、リハビリ担当PTが挨拶にきてくれた。
明日からリハ。

三日目 リハビリ開始
11時から初めてのリハビリ。
車椅子に乗って廊下を移動。ヘルニアの痛みにより数ヶ月間、ほぼ動かせていなかった右足(はよ病院いけよ)を中心に軽いストレッチから。
いきなり筋トレをするよりも、負荷の少ないストレッチを重ねて体全体の柔軟性を取り戻すのが先、とのこと。
車椅子に座った状態から膝を伸ばし、廊下と水平に足を上げるだけで足の背面の筋肉がひーーーっていう。
ひーーーーーーっっっ

四日目 歩行器に成長しました
11時からリハビリ。昨日と同じメニューをこなしたあと、車椅子から歩行器にステップアップ(アップ?)
歩行器でフロアを一周。長い…
午後からは階下のリハ室を訪れることに。歩行器での旅開始。

病院のご飯はまずまずだ(お世辞にもおいしいとはいえないけど、マズくもないです)


五日目 介助浴
歩行器に体を預けながら2階下のリハ室へ。さまざまな機械が待っていた。
長いこと痛みで破裂しそうだった右足、それをかばっていた左足。
どっちの足にも「ストレッチで柔軟に」という名の労いが必要らしい。
寝ておこなうストレッチは、仰向けになるとなにせ背中の傷が痛むのと、
それ以前に仰向けの状態で両足を真っ直ぐに伸ばせない。足の筋肉が長い期間の緊張と痛みで固まってしまっているかららしい。
ごめんよ、足。

手術後、はじめての入浴。介助の方に手伝ってもらってなんとかかんとか。
お風呂って結構体力使うんだな。


六日目 初・低血糖
引き続きリハ。担当PTが
「どうしましたか?調子悪い?」
と尋ねてくれた。確かに調子悪い。体が重く、だるく、とにかく眠い。冷や汗がでる。
いつものひととおりのメニューをこなして病棟に帰る途中、ナースステーションに寄って傷の痛みと「なんかぼーっとする」ことを訴えた。
担当ナースがきてくれてさまざま測ってみるにいわゆる「低血糖」とのこと。随時血糖が70程度(80以下は低血糖)になっていた模様。
低血糖は初めてだが、ふわふわするかと思えばすーーーっと血の気が引いて貧血?と感じてみたり、手の震え、体全体の重さなどよくわからない気持ち悪い症状が続く。
ナースと相談して自動販売機で「紅茶花伝」ミルクティ(280ml)をひとまず一気飲み。
15分くらいで血糖値は83に戻ってきた。
その後、ナースが去ってから低血糖について調べてみたけど、悪くすると昏睡にも至るようだ。
気をつけよう(どうやって気をつけたらいいのかわからないけど、極めてシンプルに考えれば、消費カロリー(糖分)が摂取を大幅に上回るとこーゆーことになるっぽいです)

七日目 
リハビリのメニュー(ヘルニア、私バージョン)
今日もリハビリ。
リハビリは毎日午前・午後、それぞれ40分〜1時間おこなう。昨日は低血糖でフラフラだったけど今日はOK。
日によって調子の良し悪しに大きな差がある。
こういう日ごとの変動は手術の時間や規模よりも、みえない部分での心身への侵襲性の深さ大きさによるものなんだろうと感じる。

ここ数日でリハ・メニューが決まってきた。
(以下、リハ・メニュー私バージョン)
・立位による下肢背筋のストレッチ(5分)
・マット上で膝を抱える(大腿からお尻の筋肉を伸ばす)(交互に5分)
・マットに仰向けに寝て大きなボールを足でころころ(大腿からお尻、背中の筋肉を伸ばす)(5分)
・平行棒のあいだを、平行棒につかまらずに歩く(歩き方にポイントがあって、一本橋を歩くように歩くのです。ムズい。体幹・左右のバランスを鍛える)(5往復)
・レッグカール(片足3キロ、5分)
・歩行器または歩行器なしで、リハ室内を3〜5周

ここまででだいたい40分〜1時間。疲れるけど、特に朝のリハビリはやったあと、体全体に一気に血流がめぐるのがよくわかる。
頭がすっきりする。
家に帰ってからも必ず続けようと決めた。


八日目 PTはすごい
リハビリをこなしつつ退院の話題が出るようになった。
「いつ退院したい?」と担当PTから聞かれたので「一刻も早く」と答えてみた。
「うーん。もすこし待って。まだちょい不安」との妥当な回答。
PT(理学療法士)という職種に患者としてかかるのははじめてだけど、みんな的確だなぁ


九日目 退院が決まる
リハビリが順調になってきた。日ごとの変動はあるものの、歩行器なしで歩けるようになったし、左右の足の痛み方(その日によってまったく異なる)やバランスの悪さもかなり整ってきた。
一日のリハビリを終えて夕方、執刀医(主治医)が部屋にのぞいてくれ
「退院していいよ。金曜日の午前?」
とのこと。
はいっ!いまでも!明日にでも!


十日目 最後の晩餐は読書
入院していちばんお世話になったのはどう考えても執刀医と、リハ担当の理学療法士(PT)だ。
最後のリハ。
私を担当してくれたPTはたぶん30歳くらいの物腰の柔らかく、的確で厳しさもある頼もしい青年だった。
的確に指示を出し、メニューを整え、私の疑問にきちんと答えてくれた。
他の患者さんに接する姿をみていても、彼の人に対する姿勢がよく伝わってきて
多少待ち時間が長くても、彼が他の患者さんに丁寧に助言する様をみている時間はそのまま大きな信頼感となった。
プロってすごい。
退院後、自宅でできるストレッチメニューをきちんと再確認して、すべてのリハビリ終了。ありがとう。

病院最後の夜は「読みかけていた本をどっぷりと読むことに集中するから、電話に出られないけどそーゆーことで」と夕方、母に連絡しておいて
退院したと同時に始まる日常(遅滞分あり)に備えることにする。
たぶんもう二度と、こんなにまとまった期間、日常から離れることはないだろう(病気や怪我ならなくてもいいんだけど)
その最後の夜は好きな作家の好きな一冊を。
そういえば今回も入院中、一度もテレビをつけなかった。

私は本があって低血糖にさえならなければ生きていける。


雑談の効用 続ヘルニア記

「巨大ヘルニア」というのがジョーダンや平たい形容詞としてのみではなく、整形外科系のオペ室や医師をはじめとしたコメディカル間で使われる準標準語(通語)だというのが笑える。
だとしたら、今回の私のヘルニアは『整形外科 通語辞典』の巨大ヘルニアの項に写真入りで載せてもいい程度には、稀にみる巨大ヘルニアであったらしい。
私は大概、他者がその人自身に関することで
「自分はこんなにすごかった」
「ちょっと普通を超えている」
などと表現する場合『不信の目でしかみない』ようなひねくれた人間だが、
このたびのヘルニアばかりはいいたくなくとも「巨大でした」と表現せざるを得ない。
ここでちゃんと表現しておかなければ再び
「自分の痛み無視」
に拍車がかかるうえ、最初の恐れもあると聞いた。
検査やリハビリで院内をまわるたびに、接するコメディカルから
「あぁ。この方があのヘルニアの」
といわれる。


術後はじめて術衣から病衣に着替えさせてくれたのは病棟の二人のナースで、彼女たちはそれは丁寧に着替えさせてくれ、さりげない言葉で不安を取り除いてくれ、個室ベッドに着地させてくれた。
看護師さんという仕事にはほんとうに頭が下がる。

その二人のナースがときどき私のベッドメイクにきてくれる。今日も、そう。
ひとりはすこし中国語のテイストの残るしかし流暢な日本語で
「元気なったねー。安心したよ」
と話しかけてくれた。
彼女との会話をたのしんでいたら、隣の部屋を整えていたもうひとりのナースも覗いてくれて
「ほんとね。初日からだと考えられないくらい元気。よかったー」
と声をかけてくれ、しばらく彼女らと他愛ないおしゃべりができた。
もちろんその間、彼女たちは手を止めることなくテキパキと仕事をこなし、私のベッドはあっという間にきれいに整った。
ありがとう。


病院ではいろんな専門職が声をかけてくれるが、自分が話していても、ほかの方が話していても心地いいのは病気や症状とは無関係の
「どこの出身?」だったり
「子どもが小さくて子育てが大変」
だったりだのの、いわゆる日常の世間話だ。
ここで働く人々はそれぞれ専門職であるから、その領域の知恵を尋ねたり教えてもらったりはもちろんなのだけど
ふと心が和むのは
「出身は◯◯県で」とか
「妹がいてねー」とかの雑談。
やってみると、普段いかに自分が、
「袖振り合うも」の人々と「単なる雑談」をしていないかがよくわかる。

昨日は検査をとりに車椅子で検査室に向かうあいだ、中国テイストではないほうの看護師さんがつきそってくれた。育休が明けで復帰したばかりなのだそうだ。
あんなに若いのに二児のママなのかぁ
仕事と子育ては大変でしょう?という話からいろんな雑談をした。
その雑談に検査の緊張も解け、不慣れな環境もすこし受け止められる気がした。

the blessing of conversations  という美しい言葉が書いてあったのはたしか辻静雄さんの本だったと思う。
折に触れては思い出すこの言葉を「術後の病院」という、ある種の非日常のなかであらためて思い出した。


私はある意味で人との会話を仕事としているし、組織で働くこともあるのでとかく、会話とは何かの終着点や回答をみつける(みつけなければならない)ものと思い込んでいる。

けれど本来、回答があろうとなかろうと conversation  はそれそのものが blessing なのだとあらためて思う。
退院したら辻静雄さんの本をもう一度読みたい。


ヘルニア入院三日目。

ヘルニア、オペ後の個室から。

昨日、椎間板ヘルニアの緊急手術を受けた。

私はどうも自分の痛みを後回しにしがちなようだ。
ほんとうは今年の一月から痛かったのだ。
今日は12月です。

昨日、朝起きたとき腰に激しい痛みを感じて近所の整形外科ドクターを訪ねた。
そのとき私は、誇張でもなんでもなく這って診察室に入る状況だったし、時すでに若干遅し、だったのだろう。
厳しく優しいおじいちゃんドクターは
「こんなになるまでなぜこなかった。
 時間がない。急げ」
と紹介状を作り、MRI検査やオペが可能な整形外科病院にかけ込ませてくれた(この間、自分で運転したと話したら執刀医に呆れられた)
かけ込んだあとは流れに任せるほかなく、検査結果をみた執刀医に
「こんなになるまでなぜこなかった。
 時間がない。すぐオペです」
と繰り返しのフレーズを伝えられるのをなんだかぼーっと聞いていた。
紹介状を持たせてくれたロマンスグレーの御大はその界隈で名の知れた名医で、いまは現役を退いておられたことをその場で知った。


人生二度めの手術なので手術前の雰囲気は多少理解しているが、やはり緊張した。
14時に検査結果が揃い、17時には手術開始となった。
なんのこっちゃ。

私の椎間板ヘルニアは執刀医いわく
「オペ室の全員がおぉーと声を上げる程度には、みたこともない巨大さだった」
とのこと。
「こんな状態でよく我慢していたな
 (我慢にも程がある)(褒め言葉ではなく怒ってます)」
といわれた。

術後、シャーレに入った抜き取った『ヘルニア』をみせてもらったが、なんとも気持ちの悪い赤いつぶつぶだった。
赤いのは血液が混ざってるからなのか?
直径8センチ程度のシャーレいっぱいに詰まった『ヘルニア』が「巨大」なのかどうかすら私にはわからないが
あと数時間、術後が遅れていたら(すなわち私がまだ無意味に痛みに耐えて、一歩歩くのすら呻きながらでも、ぐずぐずと家事を続けていたら)一生残る排尿機能障害を引き起こしていたとのこと。
オペの傷口は痛く、まだベッドから起き上がるのが精一杯だ。

これを書いているのはオペ翌日の個室のなかです。


私のヘルニアはその道のベテラン医師が
「超巨大」という大きさで
それを取り除くため第四・第五腰椎(骨)そのものを大きく削り取ったとのこと。
私は全身麻酔のため、手術の経過と説明はまったく覚えていない。
その場で聞いていなくてよかったとつくづく思う。


「自分の身体の声を無視するにも程がある」
「我慢するにも程がある」
いつも自分にそう思いながら、そうもいかない日常に追われていた。
祖母の四十九日すら終えていないというのに。


「3日で帰る」
と宣言したら
「いい加減にしろ」
と周囲の全員にいわれて入院2日目の夜が終わろうとしている。

なんのためにこれを術後の傷跡も治らないなか書いているかというと、
一重に自分の精神衛生のためだ。
ブログ、ありがとう。


しばらくスマホからアップするため、フォントの揺れやヘンな大文字小文字が発生しそうですが、リアルタイムでネットという宇宙に放ちたいのでこのままで。
万一、このブログを読んでくださっている心優しい(珍しい)方がいらしたらそこらへん、しばらくご勘弁ください。


ひとまず。