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日々の日記。ひっそりと静かに。

偏愛音楽 #2 外出自粛編(特に関係ない)




外出自粛のなか、YouTubeばっかりみてるからそのなかから
ただただ好きな歌を
(自粛じゃなくても引きこもり気味です)


星野源 SNOW MEN 】

誰かにだけわかる歌、というのがある。たぶん。
最近でいうと『Pretender』というJPop流行の曲(アーティストは私の世代には縁が薄い)を「どういう意味?」とツッコミあってる動画をみかけた。
歌詞を聴いたら私には
『すでに結婚している男性が年下の可愛らしい女性に出会い、手放し難く、しどろもどろぐだぐだしてる』
ように思えた。
ほかにはたとえば
同性同士の恋とか、いやいやもっと恋愛を超えた深く広い愛を歌ってるとか、そんなことも頭をかすめた。

この星野源の『SNOW MEN』という曲も、一見すると「どんな情景?」と感じるんだけど、
私は最初に聴いたときから一貫して「(フィジカルに)愛し合った後の男性の心理」だと思っている。
これを読んでくれる男性がおられたら、異議がかれば教えてください。

こーゆー男性いそう。ていうか、いる。
ズルくて呆れちゃうんだけど、この曲自体はなぜかとても好きだ。
MVも美しい。



tofubeats    RIVER】

tofubeats といえば『水星』という押しも押されもせぬ名曲があるが、
私が『水星』以上に好きなのは『RIVER』という曲だ。

tofubeats  水星fet. オノマトペ大臣】

ほんのりと名前を聴き、曲を聴いていたtofubeats を本格的に好きだなぁと思ったのは、ツイッターでお友だちのイケてるパパさん(ロボ羊さんとおっしゃいます)の影響だと思う。
彼が、ソリッドでナイスな曲を好みそれをツイートしてくれるたびにtofubeats をより好きになっていった。
かつて今田耕司さんが歌った曲をサンプリングしたという『水星』は確実に名曲で、同時に「いま」の時代性や世代感覚をキャッチーに掴んでいると思う。
水星からはじまった私のtofubeats巡りは『RIVER』にたどり着き、
同じく「いま」を確実に掴みつつ、私の世代にも真ん中に響く歌をみつけた、と思った。

『水星』はもちろんのこと、『RIVER』や『Keep On Loving You』
などを甥っ子(16)に教えたところ、いまはリマスターされた2013年の曲
『All I Wanna Do』
https://youtu.be/Htb0SNN4B6oをよく聴いている。
唯一にして無二の「いま」だ。


【Justin Bieber    CHANGES】

しばらくの音楽活動休止期間を経てリリースしたアルバムのなかで、私がとりわけ好きな曲。
2分弱という短いトラックながらジャスティン・ビーバーのもつタレントが溢れていると思う。
若くして世界的成功をおさめた人の行く末を、私たちは、すでにいくつか知っている。
その多くはなんらかの意味で悲しく理不尽で、加えてそれらが悲しく理不尽であったことに、世界は、彼らを失くしてから気がつく。
あることないことのさまざまなゴシップはすでに本人ですら真偽を区別できないのではないかというほど世界に知れ渡って、そんな世界で自分として生きていくことは生半可なことではないだろう。
マイケル・ジャクソンがそうであったように、ホイットニー・ヒューストンがそうであったように
ジャスティン・ビーバーは間違いなく世界随一の才能を持つアーティストだ。

なんだか老婆心ぽくてアレなんだけど、彼には幸福でいてほしい。
若いとき、あどけないルックスでヒットを量産していた頃よりも、いまの、苦味の混ざる彼の曲が好きだ。
なにより本来の歌声、リズム感、パフォーマンスの才能にあらためて心打たれる。
若き才能よ、どうか幸福で。
『CHANGES』、美しく切ない。



【Billi Eillish   bad guy】

ビリー・アイリッシュが2019年のグラミーを総ナメしたという事実に、UK&ビルボードチャートの実力を思い知らされる。
とうのビリー・アイリッシュジャスティン・ビーバーの大ファンだとのこと。
音楽界のスピードは速い。
けれど普遍的なものはかならず残ってゆく。
「2019」と「ビリー・アイリッシュ」とはグラミーの底力を、そして音楽の「いま」を、音楽の役割を、音楽の「これから」を示すチョイスだったように思う。



そして今回の最後に。

SUCHMOS      MINT】

サチモスといえば
「トーキョーフライデナーイ」
のバカ売れから久しい。
いまも変わらず彼らの曲が好きでなかでも『MINT』は格別だと思っている。

英語で「mint condition」などと表現されるように「mint」は、
もちろんそのままの「ミント」を指す場合もあるが
「真新しい」「新品の」「おろしたての」
という意味がある。
サチモスの『MINT』はおそらく後者の意味合いなのではないだろうか。

売れまくったたくさんの曲の中でもこの曲はリリック、テンポ、アレンジそのすべてが完璧だ。ボーカルの声とこれほどマッチする楽曲があるだろうか。
サチモスらしいアーバンな感じ、ほんのすこしのハスっぽさ、なによりも心地よいドライさに「見事」以外の言葉を失う。


いま、世界を飲み込むこの禍が通り過ぎだ後の風景はきっと mint condition と呼べるはずだ。
ありとあらゆるカオスのなかから真新しい世界が、日本が、心地よく力強く立ち上がっていくさまを信じている。

いま遠くにいる姪や、私たちが経験したことのない青春時代を生きている甥や、
孤独な思いをしている人
眠るところがない人
食べるものにもことかく人
仕事を失った人
激務に疲れ果てている人
それらを支えている全ての人々に
おろしたての、mint condition  といえる未来が来ることを。

近いうちにきっと。


春の雨の夜のうた  Mr.Children 「365日」

冬から春に変わる季節の雨はときに冷たく、ときに生温く、三寒四温の言葉のとおり気まぐれに思う。
けれどその気まぐれをひとつあけたあとには小さく春に、たしかに近づいていて不思議にすこし安堵する。

昨夜から知らぬ間に降りはじめていた雨は思いのほか強く、短く歩く傘を音を立てて打った。
雨音に打たれて突然に昔の光景が頭をよぎった。
夕方の短い散歩のときだ。


四十を過ぎて恋のことにかかずらわっている自分など想像もしなかった。
離れてしばらくたつ恋人のことはいま、好きなのかキライなのかさえよくわからない。

わがままな人だった。
出会ったときからずっと、私の友人にも称えられるほどカッコよかったけれどそれと同じだけジコチューでナルシストでもあった(友よ、知らんだろう)
育ちがよくて、ずっと年上なのに世間知らずで、けれどときどき誰よりもまともな人で。
スタイルがよくて服装のセンスが抜群によくて、ハイブランドの服も軽々着こなした。そのぶん散財もした。なのになぜが金銭感覚が私より正常なときがあって、それが笑えた。



この人のことを私は最終的に好きでもキライでもなく(もしくはその両方で)
たぶん人生でもっとも大切な恋が終わった。

只中にいたときにはまるでみえなかった物語のはじまりと終わりが、いま振り返ればあらかじめ書かれていたもののようにくっきりとみえる。
そして気まぐれな春先の雨の日にふと、その1ページが映像のように浮かんでくる。



時を忘れるほど、場所を忘れるほど、深く強く誰かを好きになることはおそらく、万人に訪れるものではないのではないかと思う。

トルストイ戦争と平和』のなかに、信心深く誰よりも心清らかなマリア(だったかな)という女性が登場する。
彼女は名家の兄妹の妹として生まれた。兄は眉目秀麗な兵士として讃えられ、けれどもその見目麗しさゆえにみせかけの愛に足元をとられ運命が暗転していく。
対して妹である彼女はたいした美貌にも恵まれず、しかしそれゆえというべきか、人、そして愛の真贋を見抜く目をもち、謙虚で信仰深く知性に満ちた女性として混乱の時代を生き抜く。そして静かに人生を終える。
誰とも深い恋に落ちることなく。
どこか『風と共に去りぬ』のメラニーを思わせた。

子どものころ、とくに理由もなく
「自分は恋愛などと無縁な女性になるはず」
と思い込んでいたしそれを確信に近く信じていた。
トルストイの描くマリアを読んだとき「こんなふうに生きたい」と思った。いまも思っている。

それなのになぜ、私の人生に恋の物語がこれほど深く刻まれているんだろう。
春先の雨の日に、傘に当たる雨音を聴きながらいまは好きとも嫌いとも言葉にできない人との一瞬一瞬が、映像が流れるように浮かんでくるのはなぜだろう。
思い出して泣くわけでもなく笑うわけでもなく、けれどただ、体ごと振り返るようにあのときが思い浮かぶのはなぜだろう。
思えば私は恋の終わりからまだ一度も、恋のことで泣いていない。

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きょうのいちにち 長い喪の作業

朝 7時前に起きて犬の散歩に行く。
犬は今年の夏で15歳のおじいちゃんで、昨年から後ろ足が悪い。前にも後ろにもハーネスをつけて散歩する。
足が悪いのに散歩が好きで、小一時間歩く。

私自身が巨大な腰ヘルニアで手術を受けてからようやく2ヶ月が経つ。
完治は1年といわれているから、たぶんまだまだ重いものを持たないほうがいいんだろう。
あと前傾姿勢とか、ダメ、ゼッタイ。

だけど犬も調子が悪いので毎日朝夕、ばっちり前傾姿勢になって10キロの犬を抱え下ろし抱え上げる。
散歩中も、前足と後ろ足の両方のハーネスを持ったうえでさまざまな荷物をバッグに斜めがけして小一時間歩くため、腰を妙な角度に曲げたままでいなければならず結構つらい。
が、それを毎日、たのしみにやっている。
うちの犬は超可愛い。


朝、犬散歩がすんだら、母の食事の支度と朝食。

つい先日、母が浴室で倒れていたところを私が発見し、救急車で搬送してもらった。
4年前のクモ膜下出血が頭をよぎり
「あ。お母さん、死んだかな」
と思った。クモ膜下出血のときと今回、二度目だ。
結局、原因不明ではあるが過度の衰弱で、毎日点滴に通った。
入院すると認知機能がおちそうなので家で看病やら介護やらをした。
約二週間でやっともとの母に戻ってきた気がした。が、まだ油断禁物っぽい。


そんな状態の母はおかゆばかり食べる。
そして元気が戻り始めてからは、ものすごく食べる。
へんな好き嫌いが前より増えた気がする。
調子の良い日は「吉野家につれていけ」という。
吉野家って、いままでほとんど行ったことなかったじゃん。
おかゆしか食べられない →  吉野家しらすおろし定食をもりもり食べる」のステップが娘の私にも理解不能だが、食べられるだけでなんでもいい。


しらすおろし定食を食べた母を乗せてちょこっとした買い物にまわる。
もちろん、母の気晴らしも兼ねている。
食パンとかごま昆布とか。
我が家にあるお菓子Box用のチョコレート、かっぱえびせんチーズおかき
あとは介護用下着を母のものと犬のもの。


あ、犬のおもらし対策ですが、獣医さんに
「オムツベルトのなかには人間用の介護パッドをするといいですよ。犬猫用より何倍もよく吸うので」
と教えてもらってからマナーベルトのなかには人間の介護用パッドをつけている。
ほんとに便利。
これを使い出してから、むやみに犬の体や布団や服が濡れることが減って、快適にいさせてやれているんじゃないかと思う。
たぶん。

荷物と母を抱えて帰宅したら13時ころだ。
母のお風呂の時間。
浴槽の中に、介護用品屋さんからテストとしてお借りしている滑り止めマットと、小さなステッパー(椅子も兼ねる)をおいてお湯をはる。
よいしょよいしょと母の服を脱がせて浴槽にちゃぽんとつかってもらう。

我が家は浴槽の中で母の体を洗う。そのほうが寒くないから。
背中を洗い、自分で洗える部分は自分で洗ってもらって、頻繁にシャワーをかける(寒いといけないから)
顔は母が自分で洗う。
髪は私が洗う。
最後にお湯を抜きつつシャワーで全身を流して、浴室内で体を拭いてオッケー。
脱衣所はハロゲンヒーターで温めておいて、また、よいしょよいしょと今度は母にパジャマを着せる。
ドライヤーで髪を乾かしたらおしまい。
「あー気持ちよかった」
という言葉をねぎらいと受け止めたい。
お風呂で疲れた母はしばし休憩。
時間は14時。

ここから16時半の、犬の夕散歩までのあいだにどれだけ家事ができるか、だ。
洗濯機を回し乾燥機にイン。
掃除機は母が寝ていない部屋のみ、ざっと。
お風呂は、さっき母がつかったし、みんながひとしお、気持ちよく使いたい場所だろうから念入りに。とはいえ天井までは毎回届かなくて無念…
夕ご飯の支度をどこまで何ができそうか、手をつけ始める。
きょうは急遽、姪が帰ってくるというので何か用意しようかと思ったけど、結局、お餅を焼いて食べられる準備だけしておいた。
姪が特にお餅が好きなわけではない。
なぜか私が、私だけが、お餅に激ハマりしている。
フライパンにうすーーーく油を敷いて弱火でゆっくりゆっくり焼く。
お雑煮のお餅は苦手だけど、自分で焼く焼き餅はほんとに美味しい。

やきもちっておいしいんだってよ、世の男性陣。


合間に仕事のメールが届いて、2件片付ける。
親戚関係と連絡を取らなければならない案件も、この間に済ませる。
ついでに母のケアマネさんにも連絡。


そうこうしてたら16時が過ぎたから犬をみにいったら爆睡してた。
起こすのが気の毒なので先にご飯の用意(犬の)とか洗濯(犬の)とかをしてたらもそもそと目を覚ました。
「散歩いく?」
と声をかけると仏のように笑う。可愛い。
ハーネスをつけて、また小一時間散歩する。
帰っきたらご飯なんだけど、最近、めっきり食べる量が減った。
体も痩せてきた。
認知機能はしっかりしていてありがたい。
ご飯、違うのに変えてみたりいろいろ混ぜたり試行錯誤。
も少し食べられたらいいね。
ご飯を食べてお白湯を飲んで、体を拭いてオムツをしたらすぐに寝始める。
これは朝もそうで、散歩の後はすぐ寝てしまう。
いいよいいよ。ゆっくりおやすみ。
よく歩いたね

犬の夕ご飯のあとは母の夕ご飯。
白かゆがメインで納得している。
今日はおでんと、私の特製超簡単湯豆腐(お豆腐に永谷園のお吸い物のもとをかけ、お湯を注いで、お豆腐を崩しながら食べるというスーパーフードです)、
納豆、ごま昆布、お味噌汁。
こんなにちゃんと食べられるようになってよかった。
ほんとによかった。

他愛のないことを話しながら母がご飯を食べるのを横からのぞいている感じ。
私もちょこちょこ食べるけど、夕ご飯の時間あたりは疲れてしまっていてあまり「何かを食べたい」感がない。
母の薬を用意して飲むのを確認。
食器は食洗機にざざっと詰め込み、あとは食洗機頼み。助かる。


母を部屋に連れて行って、すこし雑談。
このすこしの雑談がなんか大事みたいだ。
すぐ隣の部屋にいるから
「何かあったらすぐ起こして」
と声をかけて、母は消灯。
20時くらい。でもそのあともひとりでテレビみたりしてるみたい。



で、私もやっと一人の時間がくるけど、
やらなきといけないこたがたまっている。
大雑把に引越してきたのでまだ荷物が整理できてない… 荷物の箱が散乱している…
確定申告しなくては…
確定申告どころか家計簿も間に合ってないぞ、今月…
仕事は当面、私はいないものと考えて進めていただきたい…(すまん)


こんな感じがエンドレスで続いているのが、年明けからの日々だ。
たれか、たれか助けて…といいたいが誰も助けてくれないだろうから、
たまに自分に小さく何かを許したりする。
今日は買い物のついでに飲みたかったウェルチを買ってやった。私だけが飲むのだ。
あとは、芸人さんたちのラジオをタイムフリー・アリアフリーで聴く。
有吉さんのラジオはもう何年聞いてるか忘れたけど、いまもサイコー。

本を読む時間がないのが難点だ。
お友達から教えていただいて読みたい本が2冊もあるのに、
耳で音を聞くことはできても
目を開けて文字を追う体力が1日の終わりにほぼ残っていない。
も少し手際良くならないもんか。


つーか、介護というか、介護、というか、
介護?というのか??この日々を。
なんかよくわからないけど親を、まるで子を育てるように手をかけ、見守るということのある種の寂しさと、
自分自身のライフステージの変化とを強く強く実感する。
それは「介護負担」とか「介護のストレス」とかと単一に括られるような感覚ではなくて、
ある種の喪失とそれにぴったりくっついたごく現実的な役割の重さやバランスや、未来への不安や体力勝負や、
そんなものの集合体で、
さらにいえば
(この言葉を使うのは緊張するけれど)
長い長い、喪の儀式で。

私にとっての母への喪の儀式は、母が他界した時から始まるのではなく、こうして親としての姿を一枚一枚剥ぎ、ただの人としての親を、人としての自分が手をかけ見守る日々そのものなのではないかとこの頃思っている。
そんな話を大事な方と最近、静かに話し合ったばかりだった。

いま、この時間は介護という名前の、ほんとうは、長い長い喪の儀式なのかもしれない。


そう思うことは胸にずしりと迫るけれど。
たぶん、きっと真実だ。
だからこそ向き合う。きょうも、あしたも。
そして自分でい続ける。


祖母の死 大正11年生

2019年11月半ばの早朝に祖母が旅立った。
母から、祖母の死を告げる電話が鳴ったのは朝3時だった。

3年ほど前から、自宅と病院と施設へのショートステイをサイクルのように繰り返しながら過ごしていた祖母は、2年前に完全に施設に入所した。
血液が作れない疾患のため輸血を繰り返し、高齢なのでそのたびに少しずつ弱っていく祖母の体と頭を介護することに、末娘であるうちの母は心理的に参ってしまったようだった。
母をみかねて、私が施設の人に掛け合い施設入所の運びとなった。


うちの母は甘え気質の末娘で、そんな母にとって祖母は、ときにうっとうしいほど気丈で立派な母親であったと思う。
若き日はいろんな場所での役員仕事に精を出し、毎日、日経新聞の株価を一通りながめる。読売新聞には隅から隅まで目を通していて、90歳を過ぎるまで選挙投票を欠かしたことがなかった。

祖母が自宅で過ごしていたころ、部屋をのぞくと、祖母はたいてい暇なのでなんやかんやで話につかまるのだが、
話題はときの政権のこと、外交問題、いまの教育のこと、どこぞの企業の業績、話題のがんの最新治療、「目にはブルーベリーがいい」などなど、
私よりはるかに時事に通じていて会話が終わることがなかった(いつも、誰かにこっそり電話を鳴らしてもらうことで私はようやく解放された)
背が高くおしゃれが好きで、ワンピースや帽子、着物にはどれほどのへそくりが費やされたのかとなかば微笑ましく呆れてしまう。
何枚も箪笥に仕舞い込まれた着物のうち、いちばん高価なものを着て祖母は棺にはいった。
いまも祖母のクローゼットのなかには背の高い祖母の身長にぴたりと合わせたレトロなワンピースが何枚もぶらさがっている。
祖母より20年はやく他界した祖父のネクタイの、何倍の枚数あるのだろう、ワンピース。

「男性に生まれたらよかったのに」と自他ともに言葉にされる祖母の強さは、とくに若いころ、周囲を悩ませることも困らせることもたくさんあったみたいだ。
母の気の強さに三人の子どもたちはそれぞれに疲弊し、疎遠になった時期もあったらしい。
結局、末娘である私の母が最期まで祖母と共に生きることになったのだけど、私はそれでよかったんじゃないかと孫ながら感じた。
うちの母は末っ子体質全開で、祖母は生命力の塊なような人で、それぞれ「ほんとに親子か?」と問いたくなるくらい違う性質の二人だけれど、祖母は末娘である母を最期まで可愛がっていた。私にはそうみえた。
そしてたぶんうちの母も、気丈で立派すぎる自身の母の最期を看取りながら愛されてきたことをあらためて感じとったようにみえた。
親子とはずっと、生まれてから死ぬまで、いろいろ簡単ではないけれど、すこしでも心が近づきながら見送ることができたらいいと思う。

祖母が死ぬ前にごちゃごちゃと書き綴ったノートが一冊残されていて(ピンクのコクヨのノート)、その最後のページに

「娘さんへ
 買いものにいってきますから
 まっていてください」

と這うような字で書かれていた。
娘さん、というのはたぶんうちの母のことだ。
そのページを見た母が涙ぐんでいたけれど、涙ぐんだまま、ノートを自分でしまっておく力はなさそうだったから私が保管している。



1990年代だろうか。
伯父(母の兄貴)夫妻が仕事の都合でニューヨークに住んでいたことがある。
1ドル300円ほどの時代だ。
当時60代だった祖母は呼ばれてもいないのにニューヨークに飛んでいき、祖父のことなどほったらかして二ヶ月近くもニューヨーク暮らしを満喫してきた。伯母(伯父の奥さん。典型的な都会育ちのお嬢さん)は田舎の姑に二ヶ月も居座られて、さぞかしげっそりしたことだろう。
周囲の空気など知ってか知らずか「誰がどう思おうと私は私のしたいことを楽しむ」スタイルの祖母は、ナイアガラの滝からセントラルパークまで、どの写真をみても生き生きと、生命そのものを呼吸しているようにそこに立っている。
30年以上が経ったいまもニューヨークで、モスクワで(ロシア勤務もあったのです)、サンクトペテルブルクで、ハワイで、我が人生をめいっぱい謳歌する祖母のふわっとした息遣いが写真から伝わってくる。
祖父と祖母、そしてうちの母の幼い日を収めた白黒の写真ばかりのアルバムは、これからも、いつか私が死んでも、
姪や甥に引き継ぐために祖母のノートとともに私の部屋にしまう予定だ。


祖母が亡くなる半年ほど前に、何を思ったか祖母が突然私を呼び指輪のありかを告げた。
その時の祖母はぼんやりはしていたがぼけてはいなかったと思う。
「あなた、あの引き出しにある指輪をな、あなたにあげる。
 今度くるときはその指輪をしていらっしゃい」
古めかしい立て爪のダイヤで、サファイヤを囲んだ指輪は祖母の言う通りの場所にあった。
大柄な祖母の指輪は私には大きくて中指でも人差し指でもブカブカしたけど、落としてなくさないように気をつけながら指輪をはめて祖母のところに会いにいった。
指輪をみた祖母の顔は一瞬で明るくなり、いっぱいに笑みが広がって
「そうそう。これは、トコさんにあげようと思ったったんよ。
 よう似合う、よう似合う」
とつぶやいて、ほんとうにうれしそうに祖母は、細くなった自分の腕で私の手をとった。
私は
「ありがとう。大事にするよ」
と答えて、いつ、どんなときに買ったものかを夢か現か語り始める祖母の話になんとなく耳を傾けていた。


立て爪の指輪はいわゆるオールドスタイルで、いまでは宝石店でもあまり目にしない。
代々受け継ぐ人たちも多くは、いまっぽいデザインに作り直されて娘へ、娘から孫へ渡ることが多いのだという。

私は、とくにジュエリーはクラシックなデザインのものが好きだ。
祖母や母から受け継いだものはたしかにデザインは古く、とくに指輪は石をホールドする爪の形が新旧ですっかり変わった。
私は古い立て爪が好きだ。
何をするにもひっかかるし、いまっぽくもないのだろうけれど、私のもつ立て爪の指輪にはいまっぽさよりも何倍も大事なものが詰まっている。
それらに変に手を加えることなくその思いのままそれぞれを愛で身につけていたいし、次の世代(姪になるのだろう)に渡したい。
祖母から指輪をもらって以来、「ここには祖母を連れてきてあげたかったな」と思う場所や時間には、ときに場違いに見えても、祖母の指輪をはめていくことにしている。
祖母の他界後、身近な、祖母にとって妹のような存在だった方が続くように亡くなったが、その方のお通夜と告別式にも、ドレスコードを外れること承知で祖母の指輪をつけていった。
すこしでも互いにお別れがいえただろうか。


強気で強情で、華やかなことが好きですこしケチで、そんな祖母から私が教わったことは何の言葉でもない。
最期まで自分のしたいこと、ありたい姿に尽きぬ興味と好奇心を抱き続けた生き方だったと思う。
強さゆえ、周囲を傷つけることも、誰かをけちょんけちょんに言いまかすことすらあって、たぶんどこかで誰かに眉をひそめられたことだって一度や二度ではないだろう。
それでも「どこからわいてくるの?」と尋ねたくなるような生命力と好奇心で、祖母は最期まで自分のスタイルを貫き通した。
今日着る服のこと、帽子のこと、いま作成中の俳句のこと、ちぎり絵のこと、日経平均、政権構造、大好きな甘いお菓子とアンパンのこと。
施設に入って寂しいと、祖母がこぼしたのを聞いたことがない。
体調がすぐれないと泣くのを、聞いたことがない。
自分はいつ退院するのか、輸血がいつ終わるのか、いつ死ぬのかと周囲をこまらせたと聞いたことがない。


おばあちゃん。
強くて、私が子どものころはその強さをこわいと思ったこともあったんだ。
でもそれは子どものころだけで、
自分が歳をとるにつれておばあちゃんの強さとわがままな生き方を尊敬してたよ
生きることを、教えてくれてありがとう。




私のもとにある、祖母が最期に書き綴っていたコクヨのノートの中ほどには突然、
「トコさんへ」
と私の名前がでてきていて驚いた。
しかし、「トコさんへ」に続く文章は
「〜×÷+・・×○〒%>☆」
と、握力の弱った手で書いたせいでいっさい読めない。
なんて書いてたの、おばあちゃん。
読めなくて心残りだよ


また会ったときにはなんて書いてたか教えてね、必ず。

ありがとう、おばあちゃん。
また会おう
また会おうね


2019年11月のある日に寄せて


拝啓 木村拓哉さま

木村拓哉さんとさほど年齢は変わらない。
木村拓哉さんをキムタクと呼ぶ世代に育った。
木村拓哉さんは私たちの世代のあらゆる意味でのアイコンで、たぶんこれこらも死ぬまでそうなんだろう。
当時、「木村拓哉さんを『かっこいい』という女性とそうでない女性とはどう違うのか?」なんて論すら生まれたほどに、存在そのものが世代の象徴だ。

つい先日まで流れていたドラマ『グランメゾン東京』を欠かさず観てた。
連続ドラマをワンクール欠かさず観たのは『逃げるは恥だが役に立つ』以来。
 ガッキー、可愛かったな


大人のラブストーリーを目にした。
鈴木京香さんは好きな女優さんのひとりで、木村拓哉さんとの大人の恋がとても素敵だった。
大人の恋は清々しく潔く、ありふれたドラマみたいにしょうもなくすれ違ったりせずに、潔くきちんと届きあう。

グランメゾン東京を観ているときはたいていひとりだから、誰に遠慮もなく心おきなく泣いた。
清々しい大人同士のタフな恋に、静かな思いやりに、秘めた強さといくつもの愛の形に遠慮なく泣いた。
キムタク、いや木村拓哉さん、なんてかっこいいんだ
(私はあっさり「かっこいい♡」という派です)


長く月日を重ねても、重ねたからこそ、埋めきれないたくさんの隙間がうまれた。
未熟でコドモで弱く葉脆い自分がいた。
テレビドラマなどファンタジーだよとクールな誰かにささやかれても、ファンタジーのなかに真実があると知っている。

私はひとりの人と二十年以上恋を続け、そしてそれを閉じた。
未熟でコドモで弱く葉脆い自分がいたと同時に、自分でも呆れるほど
その人を愛しているというただそれだけの理由で何かに耐え、傷つき、見えないところでだけ涙し、全身の力を振り絞ってその人の前で笑った。
自分の笑顔が自分を削り取っていると気づきつつ、それでも。


恋人とはよく二つ星や三つ星のメゾンに通った。
私はワインも飲めなければ、リンダさん(冨永愛さん演じる美食家)のようにホンモノを見極める眼も舌もない。
だけど恋人とともに食べた二つ星や三つ星のお料理は文句なくおいしくて、それらの美しいお料理のまえでは傷も消えた。
ほんとうにおいしいお料理を食べたときの喉の奥がきゅうっとしまる感じ、次の瞬間にふうぅっとため息のでる感じ、鼻の奥がツーンとしてほっぺたがきゅっとしまる感じ。
どのメゾンのどのお料理ともいえないけど、ほんとうにおいしいお料理を食べたとき、あの空間のあのテーブルにいるあいだ、私は心から幸せだった。


村上春樹の短編集に収まっているひとつ、映画にもなった『ハナレイ・ベイ』(『東京奇譚集』)という作品がある。
サーファーである息子を若くして亡くした母親が息子の幻影を求めて、彼が命を落としたハナレイ・ベイを訪れる物語。

母親 サチ(たしか)はサーファーのメッカでもあるそのビーチで、息子と同世代の大学生たちと世間話をするようになる。
それぞれが東京に戻り、都会の雑踏のなかサチは偶然に大学生たちと再開する。
再開した大学生らは若者らしく女の子たちとグループデート(古っ)に夢中だった。
ふと大学生のひとりがサチにこぼす。
「おばさん、女の子ってどーやったら落とせるんすかね」
サチは答える。
「あのね、よく覚えておきなさい。女の子を口説きたいなら ① 服装を褒めること ② 話をよく聞くこと ③ おいしいものを食べさせること。いい?わかった?」

細かい部分はうろ覚えだけどだいたいこんなシーンだったと思う。


恋人はずいぶん年上だったけれど、村上春樹を初めて読んだのは私がプレゼントした『ノルウェイの森』だといっていた。
あっという間に私を凌駕するハルキストになった彼は、何か私が顔をしかめるたびにその場を茶化すように『ハナレイ・ベイ』の話をした。
「えっと、服を褒めること、話をよく聞くこと。そいで、おいしいものを食べようか」
と。

ひとまわり以上も年上の男性が子どものようにそのフレーズを繰り返すのを聞くだけで笑えた。自分の身がえぐられてもかまわないと思えるほど、微笑ましく笑ってしまった。
そしておいしいものを食べて、ふわっと温かい温度が戻ってきた。


グランメゾン東京。
柔らかくあたたかく洗練された冒険ドラマであると同時に、濃く深く、静かな大人の恋の物語だった。
あのとき、それぞれのとき、いくつものメゾンのテーブルにときに向き合って、ときにとなり同士に座って食べた something special  を思い出した。


拝啓、木村拓哉さま。
そんな時間をありがとうございます。
あなたはいつも私の世代のアイコンで、私の生きてきたどの時間にもその背景に、あなたの演じるヒーローとミスチルの曲が流れていました。


あえて一皿だけをあげるなら、
よくいったね
またいつか。またいつか。