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日々の日記。ひっそりと静かに。

冬の夕暮れの時計屋さん

1月の冷えた空気に夕暮れは美しく、寒さのなかのひとつひとつの色は鮮やかで、オレンジの夕陽が落ちるまでの紺と紫と橙の空気のなかに路面電車や地元銘菓の和菓子店、精肉屋、純喫茶、漢方薬局、美容院などが車道に面して並ぶ。その脇の通りを歩き、クルマに乗って帰路につく。

街の真ん中にある職場から自分のクルマを留める駐車場までの行き帰りは真夏以外は心地よい散歩道で、片道15分の同じ道を初めて通るように毎日、なぜか新鮮感じる。

40年以上この街に住み、数え切れないほど通った場所なのに、まだ知らない裏道や奥まった歩道をみつけながら自分の足で歩くのは朝も夕もきょうも明日も、心に鮮やかだ。控えめだが品のいい住宅の並びからは夕方には美味しそうな夕ご飯の匂いがする。その時間に精肉店の前を通ると、店員さんがガラス越しに鋭い眼でお客を待っている。ごめんなさい。きょうも買いません。

 

精肉店のとなりに小さな時計展がある。

おそらく私が生まれる前からそこにあるのではないか。青地に白の明朝体で『○○時計店』と縦書きに明かりの灯る看板。同じブルーの小さな庇(そういえば看板と庇はまったく同じ青だ。洒落たお店だったのかもしれない)、店内が丸々見通せる前面ガラス張りのウインドウと入口。間口3メートルほどで奥に長い(といっても小さい。15メートル程か) 時計店は、ひとつひとつが色鮮やかな冬の夕暮れのなかにあって、そこだけすこしセピアがかってみえた。

 

仕事帰りの浮かれた軽い足取りで時計店の前を通りかかり、ふと中を覗いた。

その日、意外なことに(!)二組のお客さんが品定めをしていた。店主と思われる白髪の老人はいつも通り、一番奥のキャッシャーのまえで、事務椅子に腰掛け石油ストーブにあたっていた。

客の一人は背の低い老婦人。壁掛け時計を選んでいるようでガラス張りの入口から向かって左の壁にずらりと掛けてある時計たちを見上げるように眺めていた。濃い紫のコートを着、ハンドバッグを左肘に抱えて、しわの寄った手を頰に当てながら真剣に。

もう一組は孫と祖母だろうか。小学校低学年ほどの小柄な女の子。三つ編みを両肩にたらして置き時計に手を伸ばしている。傍に祖母らしき女性が、ドラえもんのアラーム時計を持って膝を落とし、少女の目の高さで何か話しかけているようだった。

壁掛け時計の反対側の、祖母と少女がみつめる棚には、路面に面した手前側からシチズンやカシオの比較的安価な目覚まし時計が3段ほどの棚にばらばらと陳列してある。

店主とストーブの近く、すなわち店の奥に進むにつれ、端正で高級な腕時計や置き時計が並んでいるのだろう。

 

ガラス越しにふとみたその光景に思わず足を止めそうになった。

この光景は、いま、なんだろうか。

三つ編みの少女が幼いころの自分に思えた。私はいつもああして、細くクセのある髪を母に三つ編みにしてもらっていた。

そして時計。

 

壁掛けは新築などのお祝いに、腕時計や置き時計は進学や誕生日の記念に、思えば私の幼い頃には、新しい時計を手にすることはしばしば、何かの祝いや記念のしるしだった。

送ることも、受け取ることも。

時計はいまよりももっと「時」の象徴だったように思うし、そして「時」は、よりわかりやすく成長や未来や可能性のシンボルであったのかもしれない。

 

私にとって時計と向き合うことはかつて、それ自体が特別なことだったようにおぼろげながら思い出し、そしてそれは時代や社会にとっても、少なからず同じだったのではないかと考えた。

「時」とそれを刻む道具と、そしてそのなかを生きる自分との関係はどんなふうに変わったのだろう。

パラレルないくつもの「時間」が同時並行的に行き交っている。それらはそのまんま「タイムライン」と呼ばれたりもする。

デジタルネイティブな10台ではなく中年にはいった私ですら、いくつかの時間軸を生きている。昼夜とか太陽の動きとかと無関係に、自分の覚醒とともにあり眠りとともに意識の底に沈む。主に手のひらかラップトップのなかにあり、真冬の夜中にニューヨークのファッションウィーク オスカーデラレンタのサマーコレクションを眺めた次の瞬間、悲しい死を遂げた少女のニュースに指さきが止まる。

私の、いま持っている時計はどこだろう。

ベッドサイドにひとつ。腕時計がいくつか。

いちばん目にするのは手のなかにあるハイパーデジタルな小型パソコン兼個人電話機の四桁の数字だ。

アナログなのは腕時計だけ。

乏しい持ち物のなかで一際愛着のある黒革の腕時計はなによりもその美しい文字盤が大好きだ。あの時計の針が刻む1分は昔と同じ長さなんだろうか。

時の進みを回転する針で教えてくれていたあの1分は、いまも同じ速さで回っているんだろうか。

 

セピアかがった店内で二組の老いと若きがそれぞれに時を刻む道具を熱心に探していた。

その光景に見惚れて足を止められなかったことを悔いている。

ひとつ大きな車道をはさんででもよいから、あの光景を私はもうすこしみつめているべきだった。

次にいつめぐり合うかわからないあの映画のような、目の前にある光景を。

 

老婦人の時計はどの壁にかけられるのだろう。

少女は朝、気に入ったアラームとともにベッドを出て、寝坊せずに学校に向かえるんだろうか。おばあちゃんに買ってもらった目覚まし時計で。

 

アップルウォッチでもブルートゥースでも、デジタルですらない時計。

秒針の音が大きすぎたり変な時間に光ったり、すぐに電池が切れたりする時計。

振り返れば大切な瞬間の集積に思える。

ただのノスタルジーか? いや、選択することの、あるいは抗えない流れの、または「時」そのものの澄んだ冷徹さと温もりをあらためて感じるからだ。

 

あの頃に戻りたい戻りたいとは思わない。

けれど足を止めてしばらく見惚れていたいと思う程には、人の集う街の時計店は美しい体温を宿していた。

2018年が終わるまえの、ある冬の日に。