大阪ラバー
大阪は川の街だと思った。
堂島川と大川と、そのふたつの川を渡す石畳の橋から立体交差の幹線道路が遠くに見えた。
市役所や旧郵政局、日銀大阪支店あたりの小さなスポットだけを散歩する時間が残った。
幼い頃きた大阪は記憶のなかで、もっともっとザラザラとして、そのざわつきに私はなぜか馴染めないでいた。
関東には慣れていたので、西日本の地方に住む私にとっていちばん身近な都会は、ずっと東京だった。物理的な距離は遠いんだけれど、偶然も必然もよくも悪くも縁の深い土地なのだ。東京は。
都会すなわち東京であった私は、長らく大阪という場所を知らなかった。
幼い頃、何度かきたことのある、しかし自分には遠い街。
そんな街にこの一、二年、なんだかよく足を運ぶ。
仕事であったり私的なことことであったり。
おそらく30年ぶりほどにきた大阪は、なんだかとても洗練されていた。
昔感じたあのザラザラとしたざわつきが鳴り止み、駅も街も空間そのものがずいぶんとシックになったのだなぁと感じた。
タイトなスケジュールの合間に歩けたのは、さっき書いたような大阪シティのごく限定的な場所。
御堂筋、堂島といったあたりなんだろうか。
すこし前にきたときには大阪駅の北口方面にステイして、三つ星のフレンチと都会的な本屋さんを味わった。
私の知る大阪は、まだこの程度だ。
この街の奥にはもっともっとディープな空間が広がってて、そこには大阪を愛する人たちが「こここそが大阪」というような土地や場所や風景や、あるいは空気感なんかがあるんだろう。
私はまだそれを知らない。
けれどここ一、二年で何度か足を運ぶことになった大阪を、私はたぶん好きになる。
うまく言えないけれどこの街を、とても好きだと思う瞬間があるのだ。
大江橋の上で、遠くの立体交差にカメラのレンズを向けているとき。
石造りの、重厚でエレガントな建物の陰に心地よい風が吹くとき。
そして何より、それを感じている自分が日々の私の延長上に確かに存在すること。
ここに恋のことはあまり書きたくないのだけれど、書かなくては言葉が続かないから、すこし書く。
*****
私の旅はこれまでずっと、すなわち恋人との旅だった。
思い起こせば恥ずかしいほど、私は一人で旅をしたことがない。
大した旅ではない。
国内の、ささやかなショートトリップだ。
けれど大人になり出かけたすべての場所に、いつも恋人がいた。
いつどこに出かけるかは、二人の時間を縫い合わせるようにして決まった。そして私は一人ではいかない場所をたくさん知った。
伯父・伯母が住む東京。そのなかの、伯父伯母とは行かない街。
横浜。千葉や茨城。東北。北陸。北海道。名古屋。九州のいくつかの場所。熱海。神戸。大阪。
何度も訪れる場所もあれば、一度きりの場所もある。
そのどちらも、これまでの旅はすべて私にとって、恋人の背中や影や手のひらを追い、見つめながらその向こうに流れる景色と、音や匂い、光や風の揺らぎを体と心に刻むような時間だった。
たぶん、私はその誰かを愛していたのだと思う。必死で。心から必死で。
それが私にとっての旅であり、日常とすこしだけ切り離された「ここではないどこか」だった。
*****
大阪は心地よい。
ほぼ普段着の延長で、ヒールの靴ではなくコンバースで、ふたりのときと変わらないのはカメラと、ヴィンテージとなりつつあるカルティエの腕時計、そして何かジュエリー(アクセサリーではなく)をひとつ身に着けることくらいだろうか。
ここのところはずっと祖母から譲られた指輪がその役目を果たしている。
ふたりで出かけるときにはヒールを履く必要のある場所があり、高価でなくとも襟を正した身支度が必要なシチュエーションがあった。
これまでの旅のなかでヒールの靴を履かなかったことなど、たぶん一度もなかったと思う。
いつも足が痛かったな
コンバースで歩いたら、石畳の道も、こんなにも長く疲れずに歩けるんだ。
風が吹けば心地よいと立ち止まり、美しいと感じた歩道の端にカメラを向けても、すべての動作に説明はいらない。
いままではそのひとつひとつ、たぶん私は隣を歩く人に言葉をかけ、ともに見上げ、相手の無関心を知りつつ立ち止まり、その逆もあり、そうして旅は始まって終わった。
いまはどこで立ち止まっても歩き続けても、道を間違えても電車がわからなくなっても、自由で、そしてひとりだ。
ひとりで、そして自由だ。
そういえば方向音痴だったよね、君。
だけど私がそういったら微かに傷つついたのは知ってました
謝らないけど、ごめんね
だってほんとうなんだもん
20年も一緒にいて、男の人ってなんてそんなことで傷つくの?
方向音痴でも、それがいいトコなのに
私が大阪を好きなのは、私が私でいることを許容してくれたはじめての街だからかもしれない。
これまで訪れたどの場所も好きだけれど、大阪は、ただひとり、私が私のままで歩いた場所だ。ヒールを履かず、普段着の延長で、仕事用のバッグをひとつ抱えて、はじめてそんな恰好で歩いた街。
コンバースの私に welcome と(たぶん)いってくれた街。
腕時計とカメラと、ブルーの石をダイヤで囲んだ古いデザインの指輪。
それが唯一、私のIDである街。
そんな街はこれまでなかった。
そんなふうにどこかを、何かを、旅という時間を過ごしたことがなかった。
背中を追い、影を追い、手をつなぐことがあまりにもすべてであったから。
人が人を好きになる力はある種の才能のように、年とともに少なくなるのではないかと感じる(そうでない人もたくさんいるだろうけど、すくなくとも私は)
けれど人が恋をするのは人にだけじゃなくて、動物や植物や、命あるすべてのものはもちろんのこと、時間や風景、場所にだって人は恋をするのだと思う。
そちらのほうの能力はもしかしたら、年とともに豊かになっていくのかもしれない。
温かく包まれたものを、包まれたことによって好ましく、心地よく思う。
そんな場所のひとつめが、私にとっての大阪のように感じる。
まだ何も知らない。
ごく小さな大阪しか知らない。
けれどもその小さな「ここではないどこか」が無自覚に与えてくれたものは、私にとって、存在の肯定にも近い。
大川の、橋の上から見た遠くに連なる立体交差。それぞれの道がつなぐどこかとどこか。
左右に大きく緩やかな弧を描いてファインダー越しの画面を上下ふたつに区切ってゆく。
あるいはそれぞれの道のその先へ何かをつないでいる。
川面が夕日に反射して小さくキラキラと揺れる。
また近いうち、ここにくる。
腕時計とカメラと指輪をIDにして。