意思と選択とサンキャッチャー 大人の階段途上日記
あるとき、あることをしたいと思った。
それなりに準備や周囲の理解が必要な事柄だったから、該当する人々に問いかけたり確認をしたりしてみたりした。
自分がそれをほんとうに「やりたいのか」を確かめる意味合いもあったと思う。
帰ってきた答えはそれぞれにクールで(私にはそう感じられた)、ひとつ共通することは「真剣に考えてくれているからこそなのだろう」ということだった。
いつか私は
「言葉を尽くして話し合えばわかる」ことと
「どれほど言葉を尽くしても本質的にわかりあえない」こととの狭間をほんのすこしだけ知りかけたことがあった。
以来うっすらと、たぶん人と人とは根本的にほぼ理解不可能なんだろうな、と感じはじめている。
バカみたいだけれどそれまでの私が夢にだに想像しなかったことだ
(私は本と会話をしすぎてきたのかもしれない)
なにかを始めたり終わらせたりするとき、その人なかで物語はちゃんと紡がれている。
その物語を
① 言葉にできること
② 物語に対してその言葉が十分であること
③ 十分であったとして、それを十分に語れること・伝えられること
④ 語ったこと・伝えたことを相手が受け取ること
自分の意思や選択を誰かに伝えるにはすくなく見積もって、おおよそこの程度にはステップがあると思うのだけど、
① から④ のひとつずつのステップが完璧に完成し、成し遂げられることなど皆無に等しい。
① から ③までの内的過程だけでもややこしいのに(思考や思いと言葉がぴったりと一致するにはそれなりの条件が必要だ)
最終的にそれを「人が」「相手が」どう受け止め理解するかなど、もはや話者のコントロールを超えている。
人は、少なくとも私は、弱くちっぽけで、往々にして間違いを犯し、勘違いも甚だしく、しょっちゅうカオスに陥る。日常が失敗の連続だ。
だから(?)自分が生きてきた経験のなかで信頼に足る数少ない人たちには、意図や意思を伝えたくなる。
理解してほしいと思う。
さらにはできるなら背中を押してくれればと、心のどこかで厚かましく願っている。
けれどよくよく考えればそんなことは不可能なんだ。
とても自分勝手で厚かましい願いだ。
私の意思や選択に責任の片割れをとってもらうつもりなど毛ほどもなくとも、皆無であっても、他者の思いを知り、理解し、さらにはその背中を押すなんて相当無茶な話だ。
それが成り立つとするならばそのときは、投げかける当人も投げかけられた人も、そもそもが大いなる齟齬の上に成り立っているのだろうとすら、いまは思う。
これまで私の背中を押してきてくれた第一の友(そう、あなたのことです、じゅんちゃん)
ほんとうにありがとう
私のなにかを理解してくれようとしてくれた幾人かの人たち。
ほんとにありがとう
と教えてくれたあの日、あの人。
予想通り、私はいまもその言葉を何度も何度も思い出してる。
そしてその言葉に含まれたたくさんの人生の側面は、たとえば長い年月、私の部屋の窓辺に吊るしてあるサンキャッチャーのように、何面にもその表面をカットされ、人生そのものみたいに多面的で、ミラーボールのように陽の光をさまざまな色に映し出す。
見ても見ても飽きぬ人生の束のように大切な瞬間に常に心にある。
サンキャッチャーの光は美しくて、そして掴めない。
掴めないけれどその美しさを、
「あぁ。美しいね」
と、そのまま心から愛でられる大人になりたい。
けれどもそれがほんとうのことだと、いまもまだ私は知りつつある途中です。