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日々の日記。ひっそりと静かに。

村上春樹と町田康(と甥っ子16歳)

中学2年生のときに『ノルウェイの森』が大ヒットし、以後過去の作品を遡る形で村上春樹に惚れて以来、ほかに好きな作家が見当たらなかった。

不幸なことだ。

世にハルキストもしくは村上主義者(なんかいよいよ怪しい)といわれる人のなかには私と同じ不幸を背負った人々がたくさんいることだろう。

村上春樹を読んで以後の私は、フレンチを知り尽くしていまの日本におけるフランス料理の礎を築き、同時に役割としての美食家を担って寿命を縮めたであろう辻静雄さん(の足先のつま先の爪のアカのその先の塵)とおんなじだ、と思う。

身体が「それ以上のもの」でないと受け付けなくなる。

 

辻静雄さんにとってのボルドーワインやリヨンでの家庭料理がそうであったように、村上春樹は14歳の私にとって「文学」の明確な基準だった。

それまで読んでいたもののなかで唯一、村上春樹以後も読み続けたのは漱石くらいで、ほかの日本文学はライトなものもヘビーなものも、知識として読むことはあってものめり込むように好きになる作家も作品もなかった。

 

ちなみに辻静雄さんの人生を描いた『美味礼讃』は素晴らしく面白いので、とくに男性諸氏にはおススメ。

 

なにしろ稀代の文章家だ。

村上春樹より美しい文章を書く日本の作家はこれまでもこれからもいないだろう。

ある部分はあまりに都会的で映画的でアメリカチックで、ゆえに「生理的に受け付けない」人たちがたくさんいることも知っている。

けれどそれ自体が日本の文学にとって、村上春樹が運んできたひとつの確かなエポックであったし、これから何百年経っても日本文学の歴史のなかに深く残り続けるもののはずだ。

 

文章とそのリズムとが途轍もなく美しく、一貫して描き続けているいくつかのテーマもそれまでの日本文学における価値観を真反対にひっくり返しつつ本質を掴み、喪失と再生、そして最近はより広く深いポリフォニーの世界に至りつつある。

そんな作家、ほかにいたか?

私のなかで答えはNoだ。

 

村上春樹を一度読んでしまうと、他のものを若干チープに感じる(主観です)

そういう病にかかってきた。

そう、これは病だ。

この先、村上春樹ほど必死で読もうと、読みたいと思う作家は現れないのではないか。

だとしてもまぁ仕方ない。

稀代の文筆家の作品をリアルタイムで母国語で読めることの幸せを味わって残りの人生(14歳以後)を生きよう、と思っていた。病の受容。

 

 

しかし、しかし出会った。

第二の人に。

 

その名を町田康という。

みんな知っている。

芥川賞もとっている。

『告白』という後世に残る名作もある。

 

なぜ、なぜこれまで私は出会わなかったのか。せめて『告白』に。

この問いを、のちに自分に何度も何度も問うた。

答えはすぐにでた。

村上春樹に夢中だったからだ。

村上春樹に夢中で、たまにそれ以外の作家に触れては落胆し、落胆を繰り返した挙句これ以上文学に落胆したくないがために、文学から遠ざかっていた一時期があった。

ノンフィクションはいくらでも読んだけど「文学」は(すなわち村上春樹以外の文学は、ということだけど)、落胆しかしないから読むのやめよう、と思っていた。

 

そんな私のプラックホール期間に『告白』は生まれ、町田康という作家も存在した(いまもしてる)

なんつー手痛い見落とし。

悔やんでも悔やみきれない。

 

せめてこの悔やみをいくらかでも晴らしたい(じゃなくて単純にどハマりして)

5年ほどをかけて町田康の作品をほぼ全て読んだ。

ただただ、素晴らしかった。いや、素晴らしい。

 

町田康を日本文学のどこかに位置づけるのは、たぶんまだはやい。

なぜならこの人の作品はまだまだ素晴らしくなり続けるからだ。

そしていつか、村上春樹亡きあと(考えたくないけど)、日本文学の大きな一角を占めるのはこの人なのではないかと思っている。

 

私が村上春樹を愛する理由のひとつに、生きることや人のあり方についての「健全さ」がある。

おそらくそうは感じない人、むしろその逆の印象を持つ人もたくさんいるのだろう。

けれど村上春樹の作品の、とくにエッセイやノンフィクションにはありありと刻まれているし、長編作品には一貫して描かれていると思うのだけど、村上文学の素晴らしさは生きる健全さの希求にあるのではないかと思っている。

それこそが、それまでの日本文学になかったものだ。少なくとも私はそう思う。

 

町田康の作品は優しい。

ビビットでドライでシュールな物語の、けれど背景図には常に人間や命あるものへの優しさが流れている。

甘ったるい優しさではない。クールでパンクな優しさだ。

その優しさが、私には、村上春樹が描き続けた健全さとどこか重なってみえる。

同じものをまったく違う角度からまったく違うテイストで描いているように。

焦点を定めた先にあるのは、人の生きる姿とそれへの尽きぬ祈りではないのか。

そう思うのだ。

 

その意味で、日本文学に村上春樹が作ったエポックの一角からさらにエポックを、町田康という人が作っていくんじゃないかと思っている。

淡々とドライに。

村上春樹の圧倒的に洗練されたどこまでも「東京」から転じて、クールでドライな大阪弁で。

 

 

いま、この世界にどうしてもいてほしい男性は私には三人だけだ。

少し前は四人だったけど訳あってひとり減った(理由は聞かないで)

 

村上春樹町田康と、そしてうちの甥っ子(16)

男性は最低この三人がいれば私の世界はこと足りる。

 

目の前の16歳男子は球を蹴る。蹴り続けて日焼けした顔で背伸びをしてる。いっさい本を読まない。

 

いつか16歳であったろう二人の大人の男性は、それぞれに生きることを言葉に変える。

その言葉で、その作品で、私という人間はやっと生きてる。

誇張ではなく。

 

 

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)