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日々の日記。ひっそりと静かに。

祖母の死 大正11年生

2019年11月半ばの早朝に祖母が旅立った。
母から、祖母の死を告げる電話が鳴ったのは朝3時だった。

3年ほど前から、自宅と病院と施設へのショートステイをサイクルのように繰り返しながら過ごしていた祖母は、2年前に完全に施設に入所した。
血液が作れない疾患のため輸血を繰り返し、高齢なのでそのたびに少しずつ弱っていく祖母の体と頭を介護することに、末娘であるうちの母は心理的に参ってしまったようだった。
母をみかねて、私が施設の人に掛け合い施設入所の運びとなった。


うちの母は甘え気質の末娘で、そんな母にとって祖母は、ときにうっとうしいほど気丈で立派な母親であったと思う。
若き日はいろんな場所での役員仕事に精を出し、毎日、日経新聞の株価を一通りながめる。読売新聞には隅から隅まで目を通していて、90歳を過ぎるまで選挙投票を欠かしたことがなかった。

祖母が自宅で過ごしていたころ、部屋をのぞくと、祖母はたいてい暇なのでなんやかんやで話につかまるのだが、
話題はときの政権のこと、外交問題、いまの教育のこと、どこぞの企業の業績、話題のがんの最新治療、「目にはブルーベリーがいい」などなど、
私よりはるかに時事に通じていて会話が終わることがなかった(いつも、誰かにこっそり電話を鳴らしてもらうことで私はようやく解放された)
背が高くおしゃれが好きで、ワンピースや帽子、着物にはどれほどのへそくりが費やされたのかとなかば微笑ましく呆れてしまう。
何枚も箪笥に仕舞い込まれた着物のうち、いちばん高価なものを着て祖母は棺にはいった。
いまも祖母のクローゼットのなかには背の高い祖母の身長にぴたりと合わせたレトロなワンピースが何枚もぶらさがっている。
祖母より20年はやく他界した祖父のネクタイの、何倍の枚数あるのだろう、ワンピース。

「男性に生まれたらよかったのに」と自他ともに言葉にされる祖母の強さは、とくに若いころ、周囲を悩ませることも困らせることもたくさんあったみたいだ。
母の気の強さに三人の子どもたちはそれぞれに疲弊し、疎遠になった時期もあったらしい。
結局、末娘である私の母が最期まで祖母と共に生きることになったのだけど、私はそれでよかったんじゃないかと孫ながら感じた。
うちの母は末っ子体質全開で、祖母は生命力の塊なような人で、それぞれ「ほんとに親子か?」と問いたくなるくらい違う性質の二人だけれど、祖母は末娘である母を最期まで可愛がっていた。私にはそうみえた。
そしてたぶんうちの母も、気丈で立派すぎる自身の母の最期を看取りながら愛されてきたことをあらためて感じとったようにみえた。
親子とはずっと、生まれてから死ぬまで、いろいろ簡単ではないけれど、すこしでも心が近づきながら見送ることができたらいいと思う。

祖母が死ぬ前にごちゃごちゃと書き綴ったノートが一冊残されていて(ピンクのコクヨのノート)、その最後のページに

「娘さんへ
 買いものにいってきますから
 まっていてください」

と這うような字で書かれていた。
娘さん、というのはたぶんうちの母のことだ。
そのページを見た母が涙ぐんでいたけれど、涙ぐんだまま、ノートを自分でしまっておく力はなさそうだったから私が保管している。



1990年代だろうか。
伯父(母の兄貴)夫妻が仕事の都合でニューヨークに住んでいたことがある。
1ドル300円ほどの時代だ。
当時60代だった祖母は呼ばれてもいないのにニューヨークに飛んでいき、祖父のことなどほったらかして二ヶ月近くもニューヨーク暮らしを満喫してきた。伯母(伯父の奥さん。典型的な都会育ちのお嬢さん)は田舎の姑に二ヶ月も居座られて、さぞかしげっそりしたことだろう。
周囲の空気など知ってか知らずか「誰がどう思おうと私は私のしたいことを楽しむ」スタイルの祖母は、ナイアガラの滝からセントラルパークまで、どの写真をみても生き生きと、生命そのものを呼吸しているようにそこに立っている。
30年以上が経ったいまもニューヨークで、モスクワで(ロシア勤務もあったのです)、サンクトペテルブルクで、ハワイで、我が人生をめいっぱい謳歌する祖母のふわっとした息遣いが写真から伝わってくる。
祖父と祖母、そしてうちの母の幼い日を収めた白黒の写真ばかりのアルバムは、これからも、いつか私が死んでも、
姪や甥に引き継ぐために祖母のノートとともに私の部屋にしまう予定だ。


祖母が亡くなる半年ほど前に、何を思ったか祖母が突然私を呼び指輪のありかを告げた。
その時の祖母はぼんやりはしていたがぼけてはいなかったと思う。
「あなた、あの引き出しにある指輪をな、あなたにあげる。
 今度くるときはその指輪をしていらっしゃい」
古めかしい立て爪のダイヤで、サファイヤを囲んだ指輪は祖母の言う通りの場所にあった。
大柄な祖母の指輪は私には大きくて中指でも人差し指でもブカブカしたけど、落としてなくさないように気をつけながら指輪をはめて祖母のところに会いにいった。
指輪をみた祖母の顔は一瞬で明るくなり、いっぱいに笑みが広がって
「そうそう。これは、トコさんにあげようと思ったったんよ。
 よう似合う、よう似合う」
とつぶやいて、ほんとうにうれしそうに祖母は、細くなった自分の腕で私の手をとった。
私は
「ありがとう。大事にするよ」
と答えて、いつ、どんなときに買ったものかを夢か現か語り始める祖母の話になんとなく耳を傾けていた。


立て爪の指輪はいわゆるオールドスタイルで、いまでは宝石店でもあまり目にしない。
代々受け継ぐ人たちも多くは、いまっぽいデザインに作り直されて娘へ、娘から孫へ渡ることが多いのだという。

私は、とくにジュエリーはクラシックなデザインのものが好きだ。
祖母や母から受け継いだものはたしかにデザインは古く、とくに指輪は石をホールドする爪の形が新旧ですっかり変わった。
私は古い立て爪が好きだ。
何をするにもひっかかるし、いまっぽくもないのだろうけれど、私のもつ立て爪の指輪にはいまっぽさよりも何倍も大事なものが詰まっている。
それらに変に手を加えることなくその思いのままそれぞれを愛で身につけていたいし、次の世代(姪になるのだろう)に渡したい。
祖母から指輪をもらって以来、「ここには祖母を連れてきてあげたかったな」と思う場所や時間には、ときに場違いに見えても、祖母の指輪をはめていくことにしている。
祖母の他界後、身近な、祖母にとって妹のような存在だった方が続くように亡くなったが、その方のお通夜と告別式にも、ドレスコードを外れること承知で祖母の指輪をつけていった。
すこしでも互いにお別れがいえただろうか。


強気で強情で、華やかなことが好きですこしケチで、そんな祖母から私が教わったことは何の言葉でもない。
最期まで自分のしたいこと、ありたい姿に尽きぬ興味と好奇心を抱き続けた生き方だったと思う。
強さゆえ、周囲を傷つけることも、誰かをけちょんけちょんに言いまかすことすらあって、たぶんどこかで誰かに眉をひそめられたことだって一度や二度ではないだろう。
それでも「どこからわいてくるの?」と尋ねたくなるような生命力と好奇心で、祖母は最期まで自分のスタイルを貫き通した。
今日着る服のこと、帽子のこと、いま作成中の俳句のこと、ちぎり絵のこと、日経平均、政権構造、大好きな甘いお菓子とアンパンのこと。
施設に入って寂しいと、祖母がこぼしたのを聞いたことがない。
体調がすぐれないと泣くのを、聞いたことがない。
自分はいつ退院するのか、輸血がいつ終わるのか、いつ死ぬのかと周囲をこまらせたと聞いたことがない。


おばあちゃん。
強くて、私が子どものころはその強さをこわいと思ったこともあったんだ。
でもそれは子どものころだけで、
自分が歳をとるにつれておばあちゃんの強さとわがままな生き方を尊敬してたよ
生きることを、教えてくれてありがとう。




私のもとにある、祖母が最期に書き綴っていたコクヨのノートの中ほどには突然、
「トコさんへ」
と私の名前がでてきていて驚いた。
しかし、「トコさんへ」に続く文章は
「〜×÷+・・×○〒%>☆」
と、握力の弱った手で書いたせいでいっさい読めない。
なんて書いてたの、おばあちゃん。
読めなくて心残りだよ


また会ったときにはなんて書いてたか教えてね、必ず。

ありがとう、おばあちゃん。
また会おう
また会おうね


2019年11月のある日に寄せて