手のひらのなかの空間
これから先、私はどんなふうになっていくんだろう。
「なりたい姿はわかる」
なんて友人に書いたけどほんとは全然わかってない。
売り言葉に買い言葉、だ。
安易に逃げた言葉。要は。
失っていくものと得ていくもの。
それを見守る自分自身。
人との別れは、別の角度から見れば自我を取り戻すことだった。
また別の角度から見れば純粋に愛着対象や仲間の喪失。
愛犬を失うことは居場所の喪失。役割の喪失。魂の一部欠如にも似た、果てしない愛着の喪失。得たものは時間と体力。でもそんなの得なくてもよかった。
持ちすぎているものも気になる。
本、モノ。
体力はあれど気力が追いつかないのでそれは要調整。
時間。
今年も走りはじめた。
非常にまだまだだけれど、走りはじめたことは事実。
本をたまに横に置いて、身体を動かす。
手先を動かして何かを作る。できれば何か美しいもの。
小さなことを勉強する。ちゃんとノートに向かってメモを取りながら。そして身につける。
走る。まずは7キロ。
失うものと得るもの。
それを同年代のある人は「成熟」と表現した。「大人」とも。
成熟とはどんなものだろう。
実用と無関係の本を読む。
自分ひとりのなかで考え、考え続ける。
何かを表現してみる。
無心になれること。
中年に差しかかって(というかもうだいぶ中年で)
すると失ったものに目と心が移る。
失うものと得るもの。
失う、と、手放す、とは少しずつ違う。
その違いは言葉にせずあえて感覚のままとらえていたい。
ここからできるなら、手放しながら何かを削いでいく。
いまはもう、手に掴んでいなくても大丈夫なものを。
そしたら、手があく。
何もない手のなかに空間ができる。
違う何かをつかむことも。
つかまないまま風にさらして生きることも。
失うよりも、手放す。
自分という個から何かを削いでいく。
いまはもう、ここになくても大丈夫なもの。
いまはもう、もっと身軽でいいもの。
いまはもう、ちゃんとわかったことを。
つかんでいなくても触れていなくても、ちゃんとわかってきたことを。