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日々の日記。ひっそりと静かに。

A CHAIN OF WORKS #1・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』

rewrite : 2014年に書いたもの】

2001年10月のある日。
京都市立美術館。
私はおそらく自分の、27歳の誕生日の記念として、ひとり京都に絵を見にでかけたのだった。
おそらく平日だったのだろう。
人ごみは想像ほどでもなく、並べられた絵画を見る一筋の人の列ができている程度だった。

列に沿ってコレクションをひととおり見終わったあと、一人の女性の前に引き返し、その人の額縁の前でずいぶん長いこと佇んでいた。

貴重な絵画を見ようと列をなす人たちが、目の前に一列ながらひきもきらず通り過ぎる。
その流れに邪魔にならぬよう、一歩後ろに立って
30分だろうか、一時間だろうか、二時間だろうか。その女性に見惚れていた。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』
「チャルトリスキ・コレクション展」と題された企画展はその年
京都、名古屋、横浜を巡る予定で
ポーランドクラクフに眠る類稀なコレクションを日本に運んできた。
「チャルトリスキ」という名前はポーランド公爵家の名で、このコレクションは18世紀末から、公爵チャルトリスキ家によって蒐集された美術品たちらしい。
第1次世界大戦、第2次世界大戦のポーランドの苦難を乗り越えて現在まで国の誇りとして愛される、ポーランドの国宝級のコレクションといえる。

このコレクションの目玉が、レオナルド・ダ・ヴィンチの『白貂を抱く貴婦人』であった。
その目玉に魅入られてしまった。
美しい。
最初からこの人を見に京都まで向かったのだけれど、その美しさは圧倒的だった。

レオナルドの絵をみるのはいつぶりだろうか。
ずっと昔、子どもの頃、
上野に『モナ・リザ』が来たとき、伯母と一緒に長い長い列を並んでもらって
けれど目の前に現れたモナ・リザその人は、幾重もの人の頭越しにちらと見えただけで
まだ少女であった私にはその面影すら残っていない。

おそらくはそれ以来だ。ダ・ヴィンチの絵をみるのは。

額縁の前にたって、その人の姿に見入る。
なんといってもみるものを釘付けにするのは、その右手。
白貂(シロテン、イタチの一種)を抱く、若くきりりとした女性の右手はいまにも動き出さんばかりに
長い指がふと伸びて白貂の毛を撫でるのではないかと思うほどに、それはそれはリアルで生々しかった。
解剖をしながら人体の仕組みに迫ったダ・ヴィンチの筆、そのもののように思えた。

ダ・ヴィンチによって一筆ひとふで置かれた絵の具は500年の時を経てなお、命を帯びているように思えた。

私は、主にその右手に見惚れたまま、ひんやりとした京都市立美術館の壁に長いこともたれていた。

ダ・ヴィンチの筆とこの女性の知的なまなざしに魅せられて帰途についた私は、この人について調べてみた。

この女性をチェチリア・ガッレラーニという。
レオナルドがこの絵を描いた1490年頃まで、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ)の恋人として、ミラノ宮廷に花咲いた人だ。
まだまだネットもなく知識も少なかった2001年当時、私にわかったのはここまでで、
そこから
この美しい人と、そして彼女を取り巻いていたルネサンス期の色彩溢れる物語を知るにはずいぶん長い時間を要した。

けれどもその長い時間、「チェチリア」への思いは意識の上に浮かんでは消えることはあっても
私の心から完全に遠ざかることは一度もなかった。
たくさんの資料やたくさんの偶然が手許に集まってきた今となっても私の心は変わらず、この若く知的なひとりの女性の上にある。
こんなふうにして、私のダ・ヴィンチへの
チェチリアへの旅は
ふりかえれば2001年の10月にはじまったみたいだ。


《参考文献》
レオナルド・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』チャルトリスキ・コレクション展カタログ、学術アドバイザー・翻訳監修 岡田温司、株式会社ブレーントラスト、2001

京都市展》
主催:京都市美術館京都新聞社、NHK京都放送局、NHKきんきメディアプラン
後援:外務省、ポーランド大使館、イタリア大使館、日本おけるイタリア2001年財団、京都府京都府教育委員会京都商工会議所


*チャルトリスキ美術館 公式サイト 「白貂を抱く貴婦人」


レオナルド・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』(1489年、油絵)