This is the CHURCH
世の中には山ほど多くの職業がありなすべきことがあるのに、どうしてこの人は、そして私は、このことを仕事としてるんだろう、と思う瞬間があって。
たとえば芸人さんとか、格闘家とか、芸術家とか。
私は格闘技を観たことがないしなんの知識のもないんだけど、
Tver(というアプリ)で、格闘技とは無関係なバラエティを見ていたらその合間にCMとしてテレ朝系の格闘技イベント告知が流れた。
プロレスとかK1とか、ボクシングとか。
ダイジェスト的にコラージュされたプロたちの動きや身体を観てて「なぜこの人たちはこんな苦しいことを仕事にしてるんだろう」とふと思ったのだ。
Amazon の prime Video でくりーむしちゅー有田さんが『有田と週刊プロレスと』という番組をやっている。なんのきっかけか忘れたけどこの番組をときどき観てる。
プロレスを観たこともないし知識もないんだけど、なんというか物語としてとてもおもしろいんだよね。日本のプロレスの歴史って。
有田さんの解説がものすごくわかりやすくておもしろいから、たとえばまとまった連休とかに『有田と週刊プロレスと』をひたすら観続けたりする。
有田さんの話に登場するプロレスラーの顔はいまだにひとつも知らないんだけど、プロレス界の日本史はなんとなくわかってきた。
全日と新日がどう違うのか、とか笑
「オカダカズチカ」と「レインメイカー」とか、「ロス・インゴ・ベルナプレス・デ・ハポン」とか(最後のに関しては単に音がイカしてるという理由で)を知識として知った。観たことはないけど。
ボクシングでいえば那須川天心とか、パッキャオとか。
と書きつつ、正直プロレスとその他の格闘技(K1もおそらくもう古い部類なんだよね)とボクシングとの区別すら怪しい程度に、私は何も知らない。
だけどその『有田と週刊プロレスと』の有田さんの話とか、メイウェザーとパッキャオ戦とか、パッキャオが祖国でいかにヒーローであるかとか、これまで歴代の有名格闘家の人生とかを聞いたり、たまに読んだりすると
人ってどうしてこうも不可解な、危うく狂おしい人生を歩むんだろうな、とつくづく思う。
格闘家が顕著にそうである、ということもあるけどそれだけではなくて、私自身も含めた市井の人々も「なぜ、そう生きなければならないのか」って思うようなことを生きてるよなぁ、見える見えないに関わらず、と思うのだ。
格闘家とか芸人さんとか芸術家に関していうと、お金を稼ぐことだけでいえばもっと堅実で安泰な方法なんていくらでもあるのに、
自分の身体を痛めたり、才能という目にみえないものに賭けたりそれを補う(普通以上の)努力をしたり、いつ評価されるともわからない言葉や絵の具や音を連ねたり。
それって今世の半分ほどを確実に費やすことで、つまりはほかの可能性を一時的にせよ手放すことであって。
それでも格闘家は格闘技を、芸人さんは人々が笑うことを、芸術家は自らのうちに眠る/人間の普遍性に触れる何かを形にしようし、そうすることで生きようとする。
そしていま私の目に届く人々はある意味での成功者の場合が多いだろうから、途中で方向転換した人や夢半ばの感を抱きつつ生き続ける人も含めれば、ほんとに人間って不思議な選択をする生き物だとつくづく思う。
時間は前にしか進まないから(たぶん)、そんな血の滲むような努力や心の軋みが実るのか実らないのかはやってみないとわからない。
やってみないとわからないことのために生きる大半を費やし、もしかしたらそのすべてが泡と帰すことだってある。
人は生まれながらになるべきものの種を有して生まれる、と考えるのは心理学(応用、臨床系)ではたとえばトランスパーソナルと呼ばれる世界とかが近い。
なんだかスピリチュアルに寄る感じがするが、その要素があながちゼロとも思わない。
けれどそれじゃああまりにもではないか、という気もして私は天賦の運命論者にはなりきれない。
選手生命の長さ短さや怪我や才能とかの、自身の手を離れたものらが折り重なり道筋を運んでいくような世界に身を置くことを自ら選んだ人たちの姿は、どうしてこうも胸に迫るんだろう。
彼らが自分とかけ離れた世界に生きるからではなくむしろ、その姿のなかにどこか自分の断片を見出すからではないか。
好きな心理学者のひとりにエリクソン(1902〜1996)という人がいて、この人はいまではすっかり一般用語となった「アイデンティティ」とか発達課題とかライフサイクルとかという言葉に、心理学としての操作的定義を与え、
同時に主にカウンセリングなどの現代のメジャーな心理療法もっとも大きな準拠枠を与えた。
エリクソンは自身の説のなかで人生の晩年(エリクソンの説、1960年代頃の65歳以降)に人間が向き合う課題は「知恵」と「人智を超えたもの」だとした。
このあたりは昨今流行りのエビデンス・ベイスドとはほど遠く、たぶんにエリクソン自身の経験からくる哲学がふんだんに織り込まれていると思う。
人智を超えたものの存在はエリクソンの時代よりもいまの方が身近なのではないかと思う。
一定程度は豊かで何者にもなり得る場所で小さな、ときにほんの少しだけ大きな選択を繰り返しつつ自分になっていく。
あらるゆものがコントロール可能なようで、けれど実はそのほとんどが自身の選択そのものの力など数%に過ぎないこと、
天変地異や職業選択に至るまで、知らぬまに何かを選び取らされていること。
そういうことは1960年代よりも2020年を目前にしたいまのほうが起こり得るんじゃないだろうか。
今日も世界のどっかでパッキャオは眠って起きてサンドバッグに向かってたり、綺麗な女の人とイチャイチャしてたりするんだろう。
格闘家はリングに、作家は机に、画家はイーゼルの前に向かい続けるんだろう。
眠って起きて、掴めるようで触覚を欠いた人智を超え、同時にごくリアルに目の前に広がる一日に。
何かや誰かの肩代わりをするように時代を担う格闘家や芸人さんや芸術家は文字通りその身を削りながら生きているようにみえる。
それを人智を超えたものと同等の、何かメルクマールのように感じるのは私だけなんだろうか。
そういえばマイケル・ジャクソンもまさにそんなような人だったよね
なぜそんなふうに生きるのか。なぜそんなふうにしか生きられないのか。なぜその生き方を選ぶのか。
人生の大半を棒に振り、時に命を縮めてでも。
マイケル・ジャクソンが亡くなったあとに出た映像『This Is It 』のなかで、来るべきツアーに向けてリハーサルにはげむ最晩年のマイケルが踊っている。
素人目にも、映像越しにもそれはそれは素晴らしいダンスで、無言で長く完璧なダンスを踊り終えたマイケルに舞台監督が
「Amazing … This is the Church …」
とひとり言のように思わず言葉を漏らすシーンがあった。それを聴いたマイケルはうれしそうに、恥ずかしそうにうつむいてすこし笑っていた。
今後、格闘技を観にいくことがあるかどうかはわからないけど
来月、世界一に輝いた若い人のDJプレイをライブハウスで観る予定。
ものすごくたのしみだ。
そういえば彼らだって、なぜDJとして生きるのか。なぜラッパーとして生きるのか。
ただ好きだからという理由だけで生きるには日々は短く人生は長い。日々は長く人生は短い。
大切な一晩のDJを聴きにいく。
何を感じるだろう。