目を閉じてみる夢への苦言
最近ときどき、恋人のことを夢にみる。
ともにいた二十数年のあいだ、恋人が夢に出てきたことは片手ほどもない。
いくらなんでも少なくないか?
でも本当。
離れてのちも、夢に出てきたことはしばらくなかった。
3ヶ月ほどあったある日、朝目覚めてふと
「あぁ。はじめて夢にでてきた」
と思った。
たいした夢ではなかった。中身は覚えてない。ただ夢にでてきたというその事実が胸に刻まれた。
半年が経ち、さらに時が経ち、この頃ときどき夢にでてくる。
この一時を過ぎればまた夢にみなくなるのだろう。その予想すら明確につきながら、夢をみる。
最近はわりにリアルだ。
「夢はつまり
思い出のあとさき」
という名言(名セリフ、名歌詞)があるが、ほんとうにその通りだ
(ここでの夢というのが眠ってみる夢だと限らないのは承知の上で)
心のなかにずっと封じ込めて自分では決して開かなかった場所。
それは思い出の一片ずつのその向こうにあって、いつも胸から溢れ心から溢れ口先からこぼれそうで、にもかかわらず私は一度も、ただの一度も言葉にしなかった。
現実の世界で私が心に封じてきた映像が夢のなかで描かれていく。不思議なほど、そのまま。
その物語が幸せであれ不幸せであれ、どちらのときも
砂を噛んだような、血の味さえする苦味とともに目が覚めて、夢だったのだと思う。
遠ざかり、手放して、一年近くかかってやっと私の意識は、開けなかった扉の向こうをすこしずつ無意識の世界から解放しつつあるらしい。
言っておくけど私は別に望んではいないのよ。
だからいいのよ、そこは。放っておいて。
でも綺麗にしまうためにどうしても手入れが必要なときは、それは仕方がないから、ちょっとだけ。
できたらほんのちょっとだけに。
朝の後味が悪いなんて、それだけで一日胸が重い。
そして閉めていた何かを思い出してしまう。
できれば、ちょっとだけ、ということで。
頼んますよ、夢。
村上春樹と町田康(と甥っ子16歳)
中学2年生のときに『ノルウェイの森』が大ヒットし、以後過去の作品を遡る形で村上春樹に惚れて以来、ほかに好きな作家が見当たらなかった。
不幸なことだ。
世にハルキストもしくは村上主義者(なんかいよいよ怪しい)といわれる人のなかには私と同じ不幸を背負った人々がたくさんいることだろう。
村上春樹を読んで以後の私は、フレンチを知り尽くしていまの日本におけるフランス料理の礎を築き、同時に役割としての美食家を担って寿命を縮めたであろう辻静雄さん(の足先のつま先の爪のアカのその先の塵)とおんなじだ、と思う。
身体が「それ以上のもの」でないと受け付けなくなる。
辻静雄さんにとってのボルドーワインやリヨンでの家庭料理がそうであったように、村上春樹は14歳の私にとって「文学」の明確な基準だった。
それまで読んでいたもののなかで唯一、村上春樹以後も読み続けたのは漱石くらいで、ほかの日本文学はライトなものもヘビーなものも、知識として読むことはあってものめり込むように好きになる作家も作品もなかった。
ちなみに辻静雄さんの人生を描いた『美味礼讃』は素晴らしく面白いので、とくに男性諸氏にはおススメ。
なにしろ稀代の文章家だ。
村上春樹より美しい文章を書く日本の作家はこれまでもこれからもいないだろう。
ある部分はあまりに都会的で映画的でアメリカチックで、ゆえに「生理的に受け付けない」人たちがたくさんいることも知っている。
けれどそれ自体が日本の文学にとって、村上春樹が運んできたひとつの確かなエポックであったし、これから何百年経っても日本文学の歴史のなかに深く残り続けるもののはずだ。
文章とそのリズムとが途轍もなく美しく、一貫して描き続けているいくつかのテーマもそれまでの日本文学における価値観を真反対にひっくり返しつつ本質を掴み、喪失と再生、そして最近はより広く深いポリフォニーの世界に至りつつある。
そんな作家、ほかにいたか?
私のなかで答えはNoだ。
村上春樹を一度読んでしまうと、他のものを若干チープに感じる(主観です)
そういう病にかかってきた。
そう、これは病だ。
この先、村上春樹ほど必死で読もうと、読みたいと思う作家は現れないのではないか。
だとしてもまぁ仕方ない。
稀代の文筆家の作品をリアルタイムで母国語で読めることの幸せを味わって残りの人生(14歳以後)を生きよう、と思っていた。病の受容。
しかし、しかし出会った。
第二の人に。
その名を町田康という。
みんな知っている。
芥川賞もとっている。
『告白』という後世に残る名作もある。
なぜ、なぜこれまで私は出会わなかったのか。せめて『告白』に。
この問いを、のちに自分に何度も何度も問うた。
答えはすぐにでた。
村上春樹に夢中だったからだ。
村上春樹に夢中で、たまにそれ以外の作家に触れては落胆し、落胆を繰り返した挙句これ以上文学に落胆したくないがために、文学から遠ざかっていた一時期があった。
ノンフィクションはいくらでも読んだけど「文学」は(すなわち村上春樹以外の文学は、ということだけど)、落胆しかしないから読むのやめよう、と思っていた。
そんな私のプラックホール期間に『告白』は生まれ、町田康という作家も存在した(いまもしてる)
なんつー手痛い見落とし。
悔やんでも悔やみきれない。
せめてこの悔やみをいくらかでも晴らしたい(じゃなくて単純にどハマりして)
5年ほどをかけて町田康の作品をほぼ全て読んだ。
ただただ、素晴らしかった。いや、素晴らしい。
町田康を日本文学のどこかに位置づけるのは、たぶんまだはやい。
なぜならこの人の作品はまだまだ素晴らしくなり続けるからだ。
そしていつか、村上春樹亡きあと(考えたくないけど)、日本文学の大きな一角を占めるのはこの人なのではないかと思っている。
私が村上春樹を愛する理由のひとつに、生きることや人のあり方についての「健全さ」がある。
おそらくそうは感じない人、むしろその逆の印象を持つ人もたくさんいるのだろう。
けれど村上春樹の作品の、とくにエッセイやノンフィクションにはありありと刻まれているし、長編作品には一貫して描かれていると思うのだけど、村上文学の素晴らしさは生きる健全さの希求にあるのではないかと思っている。
それこそが、それまでの日本文学になかったものだ。少なくとも私はそう思う。
町田康の作品は優しい。
ビビットでドライでシュールな物語の、けれど背景図には常に人間や命あるものへの優しさが流れている。
甘ったるい優しさではない。クールでパンクな優しさだ。
その優しさが、私には、村上春樹が描き続けた健全さとどこか重なってみえる。
同じものをまったく違う角度からまったく違うテイストで描いているように。
焦点を定めた先にあるのは、人の生きる姿とそれへの尽きぬ祈りではないのか。
そう思うのだ。
その意味で、日本文学に村上春樹が作ったエポックの一角からさらにエポックを、町田康という人が作っていくんじゃないかと思っている。
淡々とドライに。
村上春樹の圧倒的に洗練されたどこまでも「東京」から転じて、クールでドライな大阪弁で。
いま、この世界にどうしてもいてほしい男性は私には三人だけだ。
少し前は四人だったけど訳あってひとり減った(理由は聞かないで)
男性は最低この三人がいれば私の世界はこと足りる。
目の前の16歳男子は球を蹴る。蹴り続けて日焼けした顔で背伸びをしてる。いっさい本を読まない。
いつか16歳であったろう二人の大人の男性は、それぞれに生きることを言葉に変える。
その言葉で、その作品で、私という人間はやっと生きてる。
誇張ではなく。
腕のなかの涙と、非模範的介護モノローグ
最近、祖母に続いて母の介護までが始まりつつある。
母は72歳。
72という数字が大きいのか小さいのかよくわからないけど、人に関わる仕事を長くしてきて「元気でぴんぴんしている人」と「そうでない人」の差にものすごく開きがあるのが70代だと感じている。
同じ72歳で、ごく現役で活躍している人もいれば寿命に近い人もいたり、うちの母のように介護保険サービスの対象となる人も大勢いる。
その開き方というか、個体差というか、それがとても大きいのが70代だな、という印象を受ける。
うちの母は5年前、くも膜下出血により開頭手術を経て、お陰様で回復した。
当日の、その瞬間の夜のこと、翌日朝からのオペのこと、夕方になってオペが終わったことあたりまでをいま見てきた映画のように頭のなかで再現できる。
おばあちゃん子だった姪と甥が、母が手術だと聞いて(そしてわりと深刻な状況だと感づいて)、ふたりしておろおろと私の前で泣き出したこと、
そのふたりを抱きしめながら「ドクターXがいたらいいのにね」とくだらないことを呟いて、私のその言葉にふたりが腕の中でそれぞれに「うん」とうなづいたことも、そのときの彼らの震えと涙の温度も、いまこの瞬間のことのように思い浮かぶ。
あれから5年半。
くも膜下出血後は目立った後遺症もなく回復した母が、それなりに難儀な介護問題を抱え始めた。
長女である私はこれまでも、母の人生にかなりの程度つきあってきたつもりだが、これからもまだしばらくはそうらしい。
介護という役割に、娘としてもちろん全力を尽くす。
しかし。
尽くすけれども私は私だ。
母や祖母のために私があるのではなく、私が生きることのなかに母や祖母がいて、その介護がある。
ふたりの、身近な年上の女性に対して敬意と感謝をもって接することは当たり前だが、けれど同時に私そのものが介護になるつもりはない。
役割は、自然に与えられるものもあれば否応なしに降ってくるものもある。
そのどちらの場合も、染まり切ることも難しければ、意図的に染まらないでい続けることもまた、それ以上に難しいと思う。
社会的なものであれ個人的なものであれ、役割はすなわちアイデンティティの一部で、それそのものになってしまうことはある種の効力感を人に与える。
けれど、と思うのだ。
それがどんなに好ましいことであれ役割に酔ってしまっては終わりだ。
依存と同じだからだ。
「社会的に好ましい」ことであればなおさら、そんなラベルからは遠ざかりたい。
誰かを支えたり見守ったり育てたりすることは依存からではなく、ごく平たい言葉で言えば愛から、気持ちから、始まるほうがいい。と、私は思っている。
たぶん純度の問題だ。
近づきすぎると見えなくなる。
5年半前、腕の中で泣いていた姪と甥のこと。
今朝まで当たり前のようにそこにいた母が「もしかしてこれで死ぬのかもしれない」と思った瞬間のこと。
母自身は1ミリも覚えていないその時間のことを、最近またよく思い出す。
そして共に生きる、私を育ててくれた人の人生の後半に、私に何ができるかを考える。
同時に私自身の人生のことをより強く、より深く考える。
私は私の人生を生きていたいと。
そのなかにこそ母はいて、介護と名のつく何かがあり、けれども決してその逆ではないと、
役割という何かかからできるだけ軽やかに身を交わしながら、あのときの子どもたちの涙と彼らを抱きしめた腕と、母のドクターXとして今日を与えてくれた運命とに私なりの恩返しをする。
純度は澄んでいるだろうか?
透明であることは快適なことばかりではなく、ありとあらゆる葛藤や小さな喧嘩や互いの不機嫌やときに心地よい距離感とか、そんないろんなものを運んでくるだろう。
そのままでいい。
そんなふうに私の、「運命」という名のドクターXへの、恩返しとしての介護が始まりつつある。
・・・ふぅぅ
ヒールの高さは今日も
メーガン妃が大好きだ。
アメリカのテレビドラマ『SUITS 』にどハマりするよりも先に、メーガン妃に一目惚れした。
人気ドラマの女優さんだと知ったのはサセックス公爵夫人となったあとのことだ。
一日の終わりにInstagramのサーチ・ラインでメーガン妃に♡を押しまくる。
自分がキモい。
だいたい、私が惚れるのは女性が多い。
あ、この場合の惚れるはメーガン妃を好きであるというような意味合いでの惚れるです。
恋愛は男性とするけど、たとえば俳優さんとかタレントさんとかで男性について「好き♡」と、なることがまずない。
顔とか外見とかに関心がないのかな? 自分でも単純に謎。
対して女性は、意味もなく「好き♡」が何人かいて、すなわち私にとっての「ミューズ」ってやつだ。
メーガン妃
サラ・ジェシカ・パーカー というか キャリー・ブラッドショー
そして、アデル
日本の人も何人かいるけどいまは省く。
この3人に共通することのひとつに、靴、がある。
サラ・ジェシカ・パーカー、すなわち『Sex And The City 』のキャリー・ブラッドショーは無類の靴フェチとして描かれた。
あのドラマの大ヒットと「靴」というアイテムに向けられる意識の変化とは決して無関係ではなかったと思う。
マノロ・ブラニクを、ルブタンを、10センチのピンヒールを愛すること自体が「イケてる」の象徴になった。
足が痛くても走れなくても靴擦れしたって、ルブタンの真っ赤な靴裏イコールいいオンナの構図を作ったのは間違いなく『Sex And The City 』であり、サラ・ジェシカ・パーカーであり、キャリー・ブラッドショーだったはずだ。
いまの人たちにはそれそのものがすでにステータスをもった存在であろうマノロもルブタンも、あのドラマによってファッションの中心に至ったと思う。
懐かしい。
アデルは、天賦の才としか言いようのないスモーキーな声とチャーミングな体型、ガハハと笑う影と光がなんとも魅力的な人だけど、ふっくらとした曲線のフォルムにいつも、ヒールの靴を履いている。
オフショットをみるとぜんぜんそうじゃないんだけど(フラットシューズやスニーカーが多い)、ステージの上の彼女のたまにみえる足元は必ずヒールの靴だ。
数時間のステージで、体全身で歌いつつも足元を崩さない姿にエンターテイメント以上の美しさを感じる。
メーガン妃は出産3週間前ほどの最終公務まで、いつも10センチ以上のピンヒールを履いていた。
ハーフ・アフリカンの顔立ちに宿る知的さや、イギリスのプリンセスでありながらどこまでもアメリカナイズされたファッションを貫く姿勢も大好きだが(何しろラルフ・ローレンがよく似合う。イギリスのファッションとアメリカのファッションとはなるほどこのように違うのかと、義姉のキャサリン妃とを写真に撮って事典に並べたいくらいに典型的だよね)
何よりも見惚れるのは美しい脚と靴だ。
キャリーが履いたマノロやルブタンが生き生きと2019年に生きている。
私は誰かの何かを羨ましいと思うことが、ものすごく少ない人間みたいなのだけど(だからといって自分に満足してるわけでは、全くない)
メーガン妃の脚だけは「あんなふうに生まれたかった」と思う。
ブラックスキンの人たちの体型の美しさはあらゆる人種のなかでも抜きん出たものがあるし、それに加えてメーガン妃の、出産間近のお腹に細い指をそっと添えながら、けれどどこまでも10センチ以上のピンヒールを外さないスタイルに同じ女性としてあっぱれと思う。好き♡
30代半ばまで、自分の靴は8センチヒールが鉄則だった。
ヒールは細ければ細いほどいい。
ヒールの細さは高さと同じくらい大事。圧倒的に美しさが違う。
マノロ・ブラニクやクリスチャン・ルブタンには(値段が高すぎて)手が出ず終いだったけど、一定以上の値段の8センチヒールが山のように当時の私の靴箱を埋めていた。
必ず靴擦れをして、痛かった。
旅の荷物なんかがあったらもう、修行みたいだ。一刻もはやくこの靴を脱ぎたいと何度思ったことだろう。
にもかかわらず8センチ、細い細いヒールの靴は第一に譲れないものだった。
ほかのどんなファッションアイテムよりも私にとって「女性性」の象徴だったのだと思う。
いまの私はヒールをほとんど履かない。
ほとんどというか、ほぼゼロ。
昔、集めた靴たちはまだストックのなかに並んでるけど、もう何年も足を通していない。
たとえ足を通したとしても靴としての寿命をとうに終えている靴たちだ。
最近ふと、またヒールの靴を履いてみたいな、と思う。
メーガン妃をみすぎて自分への判断が曇ってきているのか(男性にはわからないかもしれないけど、細く高いヒールを履きこなすことはすなわち体型の維持であり、意地であり、やはり修行なのだ)
もしかして、いまの私に似合うヒールの靴があるかもしれない、などと血迷ったことを考えてしまった。
考えて、そしてうれしくなったのだ、これがまた。
困った。
8センチはさすがにもう無理だ。
細さも多少は譲ろう。 いや、やはり細さだけは譲れない。
でもまた、今度は「自分が快適にいるために」ヒールの靴を履いてみたい。
できればアデルのように、曲線でできたシルエットを足元できゅっと引き締めてくれるような、チャーミングな履き方ができたらな。
自然で快適で、そして「女性性」がちゃんと描かれるような、そんなヒールの靴はないものか。どっかにあるんではないか???
今夜もインスタで、メーガン妃の脚に見惚れて「♡」を山ほど押しながら(キモい)40半ばのヒールの靴について考える。
無理をせず、ごく自然に、たのしく思って履けるヒールはいま、私にとって何センチなんだろう。
自分のために履くヒールの高さがみつかったら、またここに書こう。
そしてそれを履いて、どこかの街を歩こう。
ちかい未来に。
そして心の中で今日も。
意思と選択とサンキャッチャー 大人の階段途上日記
あるとき、あることをしたいと思った。
それなりに準備や周囲の理解が必要な事柄だったから、該当する人々に問いかけたり確認をしたりしてみたりした。
自分がそれをほんとうに「やりたいのか」を確かめる意味合いもあったと思う。
帰ってきた答えはそれぞれにクールで(私にはそう感じられた)、ひとつ共通することは「真剣に考えてくれているからこそなのだろう」ということだった。
いつか私は
「言葉を尽くして話し合えばわかる」ことと
「どれほど言葉を尽くしても本質的にわかりあえない」こととの狭間をほんのすこしだけ知りかけたことがあった。
以来うっすらと、たぶん人と人とは根本的にほぼ理解不可能なんだろうな、と感じはじめている。
バカみたいだけれどそれまでの私が夢にだに想像しなかったことだ
(私は本と会話をしすぎてきたのかもしれない)
なにかを始めたり終わらせたりするとき、その人なかで物語はちゃんと紡がれている。
その物語を
① 言葉にできること
② 物語に対してその言葉が十分であること
③ 十分であったとして、それを十分に語れること・伝えられること
④ 語ったこと・伝えたことを相手が受け取ること
自分の意思や選択を誰かに伝えるにはすくなく見積もって、おおよそこの程度にはステップがあると思うのだけど、
① から④ のひとつずつのステップが完璧に完成し、成し遂げられることなど皆無に等しい。
① から ③までの内的過程だけでもややこしいのに(思考や思いと言葉がぴったりと一致するにはそれなりの条件が必要だ)
最終的にそれを「人が」「相手が」どう受け止め理解するかなど、もはや話者のコントロールを超えている。
人は、少なくとも私は、弱くちっぽけで、往々にして間違いを犯し、勘違いも甚だしく、しょっちゅうカオスに陥る。日常が失敗の連続だ。
だから(?)自分が生きてきた経験のなかで信頼に足る数少ない人たちには、意図や意思を伝えたくなる。
理解してほしいと思う。
さらにはできるなら背中を押してくれればと、心のどこかで厚かましく願っている。
けれどよくよく考えればそんなことは不可能なんだ。
とても自分勝手で厚かましい願いだ。
私の意思や選択に責任の片割れをとってもらうつもりなど毛ほどもなくとも、皆無であっても、他者の思いを知り、理解し、さらにはその背中を押すなんて相当無茶な話だ。
それが成り立つとするならばそのときは、投げかける当人も投げかけられた人も、そもそもが大いなる齟齬の上に成り立っているのだろうとすら、いまは思う。
これまで私の背中を押してきてくれた第一の友(そう、あなたのことです、じゅんちゃん)
ほんとうにありがとう
私のなにかを理解してくれようとしてくれた幾人かの人たち。
ほんとにありがとう
と教えてくれたあの日、あの人。
予想通り、私はいまもその言葉を何度も何度も思い出してる。
そしてその言葉に含まれたたくさんの人生の側面は、たとえば長い年月、私の部屋の窓辺に吊るしてあるサンキャッチャーのように、何面にもその表面をカットされ、人生そのものみたいに多面的で、ミラーボールのように陽の光をさまざまな色に映し出す。
見ても見ても飽きぬ人生の束のように大切な瞬間に常に心にある。
サンキャッチャーの光は美しくて、そして掴めない。
掴めないけれどその美しさを、
「あぁ。美しいね」
と、そのまま心から愛でられる大人になりたい。
けれどもそれがほんとうのことだと、いまもまだ私は知りつつある途中です。