( empty / vacancy )

日々の日記。ひっそりと静かに。

雑談の効用 続ヘルニア記

「巨大ヘルニア」というのがジョーダンや平たい形容詞としてのみではなく、整形外科系のオペ室や医師をはじめとしたコメディカル間で使われる準標準語(通語)だというのが笑える。
だとしたら、今回の私のヘルニアは『整形外科 通語辞典』の巨大ヘルニアの項に写真入りで載せてもいい程度には、稀にみる巨大ヘルニアであったらしい。
私は大概、他者がその人自身に関することで
「自分はこんなにすごかった」
「ちょっと普通を超えている」
などと表現する場合『不信の目でしかみない』ようなひねくれた人間だが、
このたびのヘルニアばかりはいいたくなくとも「巨大でした」と表現せざるを得ない。
ここでちゃんと表現しておかなければ再び
「自分の痛み無視」
に拍車がかかるうえ、最初の恐れもあると聞いた。
検査やリハビリで院内をまわるたびに、接するコメディカルから
「あぁ。この方があのヘルニアの」
といわれる。


術後はじめて術衣から病衣に着替えさせてくれたのは病棟の二人のナースで、彼女たちはそれは丁寧に着替えさせてくれ、さりげない言葉で不安を取り除いてくれ、個室ベッドに着地させてくれた。
看護師さんという仕事にはほんとうに頭が下がる。

その二人のナースがときどき私のベッドメイクにきてくれる。今日も、そう。
ひとりはすこし中国語のテイストの残るしかし流暢な日本語で
「元気なったねー。安心したよ」
と話しかけてくれた。
彼女との会話をたのしんでいたら、隣の部屋を整えていたもうひとりのナースも覗いてくれて
「ほんとね。初日からだと考えられないくらい元気。よかったー」
と声をかけてくれ、しばらく彼女らと他愛ないおしゃべりができた。
もちろんその間、彼女たちは手を止めることなくテキパキと仕事をこなし、私のベッドはあっという間にきれいに整った。
ありがとう。


病院ではいろんな専門職が声をかけてくれるが、自分が話していても、ほかの方が話していても心地いいのは病気や症状とは無関係の
「どこの出身?」だったり
「子どもが小さくて子育てが大変」
だったりだのの、いわゆる日常の世間話だ。
ここで働く人々はそれぞれ専門職であるから、その領域の知恵を尋ねたり教えてもらったりはもちろんなのだけど
ふと心が和むのは
「出身は◯◯県で」とか
「妹がいてねー」とかの雑談。
やってみると、普段いかに自分が、
「袖振り合うも」の人々と「単なる雑談」をしていないかがよくわかる。

昨日は検査をとりに車椅子で検査室に向かうあいだ、中国テイストではないほうの看護師さんがつきそってくれた。育休が明けで復帰したばかりなのだそうだ。
あんなに若いのに二児のママなのかぁ
仕事と子育ては大変でしょう?という話からいろんな雑談をした。
その雑談に検査の緊張も解け、不慣れな環境もすこし受け止められる気がした。

the blessing of conversations  という美しい言葉が書いてあったのはたしか辻静雄さんの本だったと思う。
折に触れては思い出すこの言葉を「術後の病院」という、ある種の非日常のなかであらためて思い出した。


私はある意味で人との会話を仕事としているし、組織で働くこともあるのでとかく、会話とは何かの終着点や回答をみつける(みつけなければならない)ものと思い込んでいる。

けれど本来、回答があろうとなかろうと conversation  はそれそのものが blessing なのだとあらためて思う。
退院したら辻静雄さんの本をもう一度読みたい。


ヘルニア入院三日目。