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日々の日記。ひっそりと静かに。

憧憬

現実と非現実という区別が昔からキライで、そういう言葉を耳にするたびに
「せめて日常と非日常と言って」と心のなかで訂正していた。

 

日常があわただしくなったのは年をとったからなのか、単にいまがそういう時期だということなのか。
よくわからないが毎日、暗闇からのびてくる手に「前に進め」と胸ぐらをつかまれているような時間が続いている。

 

その合間にSNSに逃避して、ツイッターでは親しみを感じる人々の日常の営みに、
Instagramでは飛び込んでくるあらゆる種類の視覚的な美しさに救われる。
生涯着ることのないオスカー・デラレンタのドレスや明日にでも飛んでいきたいスコットランドの湖や
それらはかつて「非現実」と表現された、生活から遠く離れたものだけれど
ネットというツールがそれらを「いま、ここ」とパラレルな時間・空間として私の日常に連れてきてくれた。
しあわせだ。

 

大好きな文章を書く方の、ブログとかも宝もの。
ネットという宇宙には散らばる星のように小さく、しかし確かな光が満ちていて、ことに言葉とともに生き言葉によって生かされている私のような人間にとって、魅力的な文章(と、その書き手)と出会えることがどれほど幸運かといつも思う。
とりわけ大好きなのは ロボ羊さんのブログ

http://goodhei.hatenadiary.jp/

 とても素敵だからファンがたくさんいるのもわかる。

日常の、その明るさも影もこれほど魅力的にクールに描けるなんてなんて素敵なんだろ。
茫漠と広がる宇宙にただひとつの文字通りのアドレス(住所)

その住所を私は知ってる。

 

ロボさんのブログもそうだけれど、愛の形に触れると心が揺れる。
「映え」とかとは違う意味で、Instagramで若い恋人同士が屈託なく寄り添い合う姿をみるのも好きだ。
ハリウッド女優もイギリスのプリンセスも、ジャスティン・ビーバーとそのプリティな彼女(wife)も、互いの背中に添えあった手や、時間にすればきっと一瞬の互いをみつめあう瞬間や、いまっぽいノリでバチっと撮った一枚の写真とか、それらを屈託なく世界にupするその行為とか。それらが愛しくてならない。

 

老境に入った人の貫禄や懐はそれはそれでもちろん見事だ。

 

だけれどいまの私には年若い人々の未来への、無邪気で無防備な笑顔や逃避や、刹那性や野心や恐れや、そのすべてが美しく輝いてみえる。
自分の生き方とは別に。

 

若い頃、手にしたくて得られなかったものへの思いは私にはあまりない。
「そんなふうに生きたかったわ」と思うような時間や時代もない。
ノスタルジーでもなく諦観でもなく。

 

憧憬、なのかなと思うのだ。
開かれた未来への屈託のなさと無防備さと。
若い人々のそんな姿はとくに愛の形のなかに垣間見えて、その行く末がどうであるかとは無関係にいまここにある無邪気さと懸命さと幸あれと願う心とか、その心のありようへ、静かに脈を打つような憧憬を感じる。

 

幸あれ。
会ったことすらないパラレルな世界の若い人々に、静かにそう願うことが、いまの私の憧憬。